R・E・S・P・E・C・T リスペクト

リスペクト ――R・E・S・P・E・C・T (単行本 --)

 いいことも悪いことも起こるけど、行動を起こすことはやっぱり大事だと、励まされる物語でした。

 

P160

「占拠って言葉を使うと反感を持つ人もいるけど、行政がやったら何万ポンドもかかる建物の修繕を、こっちは手弁当でやってるんだからね。訴えられるどころか、感謝されてもいいぐらいだよ。工事に来てくれているおっさんたち、ほとんどみんなプロの建設業者だし」

 淡々と作業を続けるローズを見ながら、史奈子は考えた。

 確かに、行政がやると時間もお金もかかる。市民が資材を寄付し、手弁当で工事を行えば費用はゼロだ。コスト・パフォーマンスは最高によい。でも、自分の持ち物でないものを勝手にいじるのは法的にアウトではないのか?史奈子にはまだ所有の問題が引っかかっている。

「めっちゃたくさんソーセージを貰った。メインストリートの肉屋の大将から差し入れが来てね」

 そう言って、両手にビニール袋をさげて入ってきたのは、真っ黒な服を着たコワモテの初老の男性だった。

「子どもたちに食べさせてくれって」

「うわ、高そうなソーセージ。こんなにたくさん……」

 ローズはビニール袋を受け取り、中を覗いて声をあげた。

「冷蔵庫、もういっぱいなんだけど」

「近所の家から、クーラー・ボックスを集めてくるよ」

「ああ、それいいアイディアだね、ロブ!」

 この人が、幸太がいつも話している「むかしのアナキスト」のロブか、と史奈子は思った。

「じゃ、早速行ってくる」と言ってロブはそそくさとキッチンから出て行く。

「いろんな人がいろんなものをくれる。ここではお金はいらないんだよ」

 ローズはそう言って史奈子に笑いかけた。

 貰ってくる。集めてくる。確かにここはそれだけで回っている。金銭の介入というものが全然ないのだ。所有の意識が希薄になるのもそのせいだろう。この運動を支えているのは、無償で寄付してくれる人や、貸してくれる人。そういう人たちがどんどんやってきて、物やサービスを提供する。つまり、「あげる」がこの占拠地の基盤なのだ。

 どうしてこんなことがここでは可能なのだろう。

 史奈子は幸太のようにここに馴染んでいるわけではなかったので、関われば関わるほどわからないことが増えた。いったいなぜなんだろうと知りたくなった。自分が住む世界とはまったく違うこの場所に、これほど自分が惹きつけられている理由はそれなんだと史奈子は思った。

 

P195

「お疲れでしょう」

 まるでジェイドの気持ちを読むように史奈子が言った。

「え?」

「毎日のようにテレビや新聞でお顔を見かけるので、取材を受けるだけでも大変だろうなと思って。インタビューって、媒体に出ていない部分が実は長いですからね……」

「ああ、あなたも記者さんでしたよね」

「ちっとも記事を書かせてもらえない記者ですけど」

 史奈子がそう言って笑っているので、ジェイドが尋ねた。

「書かせてもらえないんですか?」

「いえ、書いているんですけど、書きたい記事を書かせてもらえないんです。例えば、この占拠地のこととか」

「ここの、何について書きたいんですか?」

 ジェイドは少し投げやりに聞こえる言葉の響きに自分でも驚きながらそう聞いた。

「すべてです。すべてが、知らなかったことばかりだから」

「?」

「お金がなくても物事が回っていくこととか、人間は誰かに強制されなくても助け合って自治することができるんだってこととか」

「……」

 これがお金に困らない人たちがこの占拠地に見ている夢なのかとジェイドは思った。

「少しも新しいことじゃないんだよ、そういうのは。三十年前には、このあたりにはそういうコミュニティ・スピリットが溢れていた」

 そう言って足元にじゃれついてくる子どもを抱き上げようとしたウィンストンが、急に

「いてっ」と言って右手で腰を押さえた。

「大丈夫ですか?」と史奈子が横から心配そうに手を伸ばす。

「ああ、ちょっと家に戻って、サロンなんとかを貼ってくるよ。あれはスースーしてよく効く」

 ウィンストンはそう言って腰に手をあてたまま自宅に戻って行った。

「昔ながらの公営住宅地のコミュニティ・スピリットとアナキズムの親和性は高いって、そういえばコータも言ってました」

 史奈子はウィンストンの後ろ姿を見送りながらそう言った。ウィンストンに去られた子どもがつまらなそうに指をくわえてジェイドのほうに戻ってくる。

「でも、個人的に一番すごいと思っているのは」

 史奈子はそう言ってジェイドのほうを振り向いた。

「あなたたちのような女性が、行政を動かそうとしていることです」

「そんな……全然、動いてないですよ」

 自虐的に微笑しながらジェイドがそう言って首を振った。

「これから動きます。これだけメディアや世論が騒いでいるのに、無視できるわけがない。絶対に動きます」

 史奈子が自信たっぷりに言うので、ジェイドは尋ねた。

「どうしてあなたにそんなことがわかるんですか?」

「メディアで働く人間の経験というか、勘です。いまはすごくお疲れだと思いますけど、それは無駄になりません」

 ジェイドは驚いた。占拠地の仲間たちが言わなくなった前向きな言葉を、海外から来た女性の口から聞こうとは思わなかったからだ。

「私も、ジャーナリストなんて呼ばれてますけど、職場では周縁に押しやられて、同等に扱ってなんかもらえない。そんな女性は世界中にいます。それで当たり前なんだと思い込んで黙っています。でもあなたたちは黙らなかった。諦めて口をつぐむのではない、もう一つの違う道を示した。それがどれほどの勇気をくれるか、あなたにはわかりますか?」

 初秋の日の光を反射して史奈子の黒髪がきらきら輝いていた。同じ明るい光が、ジェイドの赤い髪にも降り注いでいる。

 ジェイドはぎゅっと子どもの手を握り、遠い国から来た女性の顔を見ていた。史奈子は無言でにっこり笑い、ジェイドの目を見てゆっくりと頷いてみせた。

 

P262

「……私、ずっと日本のシステムの中で育って、働いて、こっちに来てからも、それは何も変わらなかったから、どこに行こうが世の中は同じと思ってた。だから、今回は自分の知識の外側にある世界を始めて見た気がした。幸太はすでにいろいろ調べて知っていたんだろうけど、私は初めてだった」

「……」

「もちろん私の立場はジェイドたちとは違うよ。私は恵まれた環境で育ったし、お金に苦労したこともない。だけど、どこか息苦しいっていうか、酸素が足りないっていうか、あの窮屈な感じはどこから来るんだろうと思ってた。一方で、そんなの贅沢な悩みなんだって自分に言い聞かせてたし」

 幸太は黙って史奈子の横顔を見つめていた。

「いまある社会の中でうまくやんなきゃしょうがないんだって、いつも努力してきた。ちょっと褒められたりすると生き甲斐感じたりして。よし、もっとここでうまくやってやろう、親や学校や社会が喜んでくれるように、それが人の役に立つってことで、自分の価値を上げることなんだって……」

 黙って聞いてる幸太の顔を見ながら、自分はきっと恋愛についても同じだったんだと史奈子は思った。

「理不尽に思うことや不平等を感じることにムカついたり、これは間違っているんじゃないかと思うことがあっても、しょうがないと思って流してきた。闘ったり、抵抗するなんて愚かだし、そんな面倒なことをしたって何も変わらないと思ってた」

「抵抗なんて無駄でしょって、俺、何度も史奈子に言われたもん。よく覚えてるよ」

「無駄だって思うことが賢い大人のすることだって信じてた。だけど、賢く生きることで死んでしまう部分が自分の中にあって、おかしいことをおかしいって言いたい衝動とか、そういうことを抑えつけていると、ここに生きているのは自分なんだけど実は自分じゃないみたいな変なことになって、自分が自分の人生の当事者じゃなくなってくる」

 史奈子はそう言うと急に立ち止まり、唐突に幸太のほうに右手を差し出した。

「だから、ありがとうを言わなきゃいけないのは私のほう。幸太がいなかったら、自分がそういう変なことになっていたことにも気づけなかった」