100分de名著でヘーゲルを読んだことで、哲学をもうちょっと知りたくなって、こちらも読んでみました。
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二〇一六年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプの当選が決まった三日後、ツイッター(当時。現在のX)に投稿されたある本の引用画像が大きな注目を集めました。十八年前の一九九八年に刊行されたその本には、次のように記されていました。
〔……〕労働組合員および組合が組織されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは郊外に住むホワイトカラー層―この人たちもみずからの層が削減されることを心底恐れている―が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなど御免だと思っていることにも気づくだろう。
その時点において何かが決壊する。郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき「強い男」を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに約束するのだ。
まさにトランプ新大統領の誕生を予言したかのような内容です。法学者リサ・カーによるそのツイートは大量に拡散され、引用元の本はその日のうちに入手困難になりました。
その本のタイトルは❝Achieving Our Country❞(邦題『アメリカ 未完のプロジェクト』晃洋書房/引用は筆者による訳)、その著者が、今回取り上げるアメリカの哲学者リチャード・ローティ(一九三一~二〇〇七)です。ローティはすでに亡くなっていたため、トランプ大統領の就任には立ち会っていないのですが、「強い男」(Strongman)という形容を含め、その出現を正確に言い当てていたことから、彼の仕事は再び大きな注目を集めるようになりました。
では、ローティとはどのような哲学者だったのでしょうか。ローティの思想を一言で言うなら、「哲学とは『人類の会話』が途絶えることのないよう守るための学問である」というものになります。これは、ローティが自身初の単著『哲学と自然の鏡』(一九七九年)で述べていることをテーゼ化したものですが、これがローティの哲学全体を貫くテーゼにもなっています。
「哲学が人類の会話を守る」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
ごく簡単に言うと、伝統的な哲学とは「真理を探究するもの」とされています。古代ギリシャのプラトン以来、哲学者たちは真理を追い求め、真理に到達することを目指してきました。到達を目指すということは、言い換えれば、いつかは探究を終わらせることを目指すのが哲学の営みだということになります。探究が終われば、それ以上の議論や会話は不要になります。しかし、それでいいのかと問うたのがローティです。哲学の使命はむしろ、そうした議論や会話を終わらせようとする勢力に抵抗し、それらを批判的に吟味することで、会話が絶滅しないようにすることなのではないか。そうローティは考えました。つまり、ある意味で「アンチ哲学」を唱えたのがローティなのです。
では、真理の探究をやめたとき、哲学は何をすべきなのか。それを明らかにしたのが、今回みなさんと読む『偶然性・アイロニー・連帯』(一九八九年)です。・・・
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ローティの主張の要点を解説しましょう。
私たちの社会は、全員が同じ目標を共有しているわけではありません。それぞれの信念、欲求、価値観において対立する人々が、それでも何とか一緒に生活しようとしています。これは厳然たる事実です。他方、偶然の産物としての私たちの道徳というものもたしかにあります。偶然とはいえ私たちが大切にしてきた言語、ことばづかい、価値観、それらに基づく道徳です。しかしながら、それはあくまで偶然の産物であり、その正しさを保障してくれるものは何もありません。ですからひとえに、互いを保護する(傷つけない)という最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかない。そういうものが私たちの社会のありさまであると、ローティは考えているのです。目的はバラバラで、「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる。そんな者たちがそれでも何とかやっていく、それがローティの言う「リベラルなユートピア」という社会の描像です。
そんなリベラルなユートピアの市民に必要なのが、「自己の偶然性」の認識です。一緒にやっていく人同士のあいだでは、自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性があると認識する。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを認識する。そうやってお互いを改訂されることに対して開きながら、どうにかしてときには手を携える。そこに、連帯の可能性や必要性が出てくるのだとローティは言います。つまり、「必然的な本質を共有しているわれわれだから、わかるはずだ」ではなく、むしろ本質など持たない、互いに偶然的な存在であるからこそ、何かしら一緒にやっていくことができるという可能性が出てくる。ここが、偶然から連帯の契機が出てくるという、このあとの議論につながる部分です。
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・・・なぜローティがトランプ現象を二十年近く早く予言することができたのか、またそれを記した本のタイトルがなぜ「Achieving Our Country(われわれの国を成しとげる)」であったのか・・・これは当初、リベラルな思想の人々からは、愛国的で国家主義的だと非難されたタイトルでした。しかしローティとしては、このタイトルが重要だったのです。というのも彼は、「普遍的な人間」ではなく、「われわれアメリカの一員」という言い方をすることによって、道徳的に正しくないかもしれない人々の存在をあえてそこに含めることができる、そうすることで、怒れる多数派層(白人労働者)を「われわれ」に包摂できるかもしれないという可能性を考えていたのです。
そしてその二十年後、ローティの予言通り、彼らは怒れる白人労働者として表に現れてきました。彼らが〈左派〉に突きつけたのは、アメリカのリベラルが言う「われわれ」のなかに自分たちは入っていない、自分たちの苦痛や悲嘆には誰も耳を傾けない、という異議申し立てでした。
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ローティによれば、誰しもが当事者であるはずの政治という場面において、アイデンティティに訴える論法はある意味で相手を「黙らせる」ものです。「俺のつらさはお前にはわからないだろう」といったことが言えてしまう。ローティは、この論法自体が持つある種の危うさこそが問題だと言っていたわけです。
・・・マイノリティにとっては、自身のアイデンティティに訴えて「ここにこういうニーズを抱えて困っている当事者がいる」と表明することは、ほとんど唯一可能な政治的手段でもあります。・・・「私はここにいる」と言う必要がある。その点はもちろんローティも見失ってはいません。・・・
ただし、この論法そのものが持っている「会話を止める」という機能には注意しなければならないと彼は考えたのです。「お前にはわからない」という、ある意味で反駁不可能な主張をすることで、相手は二の句が継げなくなってしまう。その構造的な問題点にローティは着目しました。これは発話者が悪いわけでは必ずしもなく、そうした叫びをあげるほかはない状況に追い込んでしまう、議論や会話の主導権を握っているはずの多数派にこそ問題がある。ローティの指摘の主眼はそこにあるのです。
そうすると、この問題に対する処方箋の方向もおのずと見えてきます。・・・
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誰かを黙らせることを目指さない。「われわれ」を少しずつ拡張していくことによって、会話を守る。ローティの主張は一貫しています。そしてここに、「偶然性」「アイロニー」「連帯」がすべてつながってくるのです。