その世とこの世

その世とこの世

 谷川俊太郎さんとブレイディみかこさんの往復書簡も読みました。

 印象に残るやりとりがたくさんありました。

 

P3

 ・・・二〇一九年十一月に、朝日新聞夕刊に掲載された、谷川さんの「あるとない」という詩でした。解説には、ジャック・ロンドンの『どん底の人びと』を読んだ谷川さんが、「自分は貧困を書いたことがない」と考えて書いた作品と書かれていました。

 実はこの本、わたしの座右の書と言ってもよい一冊なのです。時々、わたしの人生はこの本に遠隔操作されているのではないかと思うほどです。・・・

 谷川さんの詩は、こんな風にはじまっていました。

 

 私は貧困を書いたことがない

 難病を書いたことがない

 比喩で書いたことはあるが

 それは事実を書いたのではない

 

 そして戦車や国債や棺桶や田植えの話になり、詩人と金の貸し借り、嘘、女の話になって、これはしたことが「ある」、これは「ない」、あれは「ない」、それは「ある」とまるでラップのように韻を踏みながら軽快に進むのですが、最終部では自由と寂しさが言及されてヘヴィになりかけます。でも、それが、

 

 私は警官に不審尋問されたことがある

 

 という一行でひょいと裏返されて終わるのです。

 そこまで読んでわたしは笑いました。

 しかし、この笑いをどう説明したらいいのでしょう。

 おかしい。

 確かにおかしいから笑っているのですが、たぶんそのときのわたしの顔は「あはは」と無邪気に笑っているのではなくて、にやっとしていたというか、見ようによっては意地の悪い邪な笑い方をしていたと思います。

 そう、無邪気な笑いではなく、有邪気な笑いです。

 どうも最近、ユーモアは正しく無邪気なものでないといけない、という風潮が世界中で高まっている印象を受けますが、わたしの住む英国は違います。というのも、いわゆるブリティッシュ・ユーモアというものが、そもそも日常に邪気を差し込むようなものだからでしょう。

 EF(Education First)という世界中に拠点を持つ語学学校がありますが、そのホームページに「ブリティッシュ・ユーモアを理解すること」という記事が出ていました。・・・国によってユーモアのセンスは違うが、英国のユーモアはとりわけ独特であり、それは英国の人々がアイロニーと風刺を楽しむからだと書かれていました。言語を学んでいる者は、誰かが発した言葉や書いた言葉をその通りに理解しようとしますが、英国英語の場合は取り扱いに注意が必要だというのです。

 ・・・「Aと言っているのに実はAとは言っていない」とか、「Aと言うことでBを意味する」ということが、英国英語には往々にしてあるからです。

 例えば、「昨日のコンサート、どうだった?」と誰かが聞きます。聞かれた人が「最高だったよ」と答えると、文字通りに取ればこの人はコンサートを楽しんだということです。しかし、ブリティッシュ・ユーモア的に言えば、この人は「めっちゃ退屈だった」「演奏がしょぼかった」、つまり「最悪だった」と意味しているときがあり、ふつうはこのテのジョークをとばす場合、いかにも冗談を言ってるんですよという感じのおどけた表情をしたり、「なんちゃって」みたいな仕草をするでしょう。でも英国の人々はそうした説明を一切与えずに真顔でこういうことを言ってのけるので、最初は確かに判別が難しい。

 わたしは四半世紀を英国で過ごしているので、もしかするとこれが伝染しているのかも知れず、たとえばエッセイで「こういうことがあったのでわたしは泣いた」と書いたりするとき、「こんな些細なことで人間が泣くわけないだろ。ははは。大袈裟で笑える」と自分ではジョークのつもりで大笑いしながら書いているのに、日本の人に会うと「共感して泣きました」とか「大変でしたね」とか、思いもよらぬ感想を聞かされて「は?」となることがあります。

 直線的。そうなのです。こうした反応は直線的です。それに対し、ブリティッシュ・ユーモアはねじれているのです。「邪」には「道をはずれていること」という意味がありますが、まっすぐな道からあえて逸脱し、コミュニケーションを横にずらすような、「有邪気」のスピリットが英国の笑いにはあります。

 この邪気は、逆説的に世の中から刺々しいものを取り払う働きもしているように思います。例えば、前述の「昨日のコンサート、どうだった?」の会話で、聞かれた人が「最低だった」とストレートに答えたら、言われたほうが感じるのは相手の怒りであり、会話はポジティブな方向には進みづらいでしょう。しかし、「最高だった」という皮肉をぶち込むことにより、会話は軽やかで明るい方向に進むのです。

 最近、ねじれた邪さが癒しになる例をテレビで見ました。それは、コロナ禍で逼迫する英国の医療現場を追ったドキュメンタリーでした。

 コロナではない重い病気を患っていた初老の男性が危険な状態に陥り、パートナーの女性が救急車を呼んだのですが、到着までに何時間もかかり、男性は亡くなってしまいました。救急隊員が死亡を確認するとパートナーの女性は床にへたり込み、ぼろぼろ涙をこぼしはじめます。一人の女性の救急隊員が彼女に近づいて脇に座りました。ふつうなら肩を抱くとか、ハグして慰めの言葉をかけるとか、そういうことを予想しますよね。

 でも、救急隊員の女性の口から出たのは意外な言葉でした。

「紅茶にミルクと砂糖は入れますか?」

 こんな切羽詰まった状況で、「紅茶にミルクと砂糖」なんて、ふざけているのかと思う人もいるでしょう。実際、号泣していた女性も虚を突かれたような顔で救急隊員を見ていました。でも、次の瞬間、彼女はほとんど反射的に「ミルクだけ入れます」と言ったのです。

 救急隊員の女性はキッチンに行って紅茶をいれてきました。泣いていた女性はマグカップを受け取り、黙って飲みはじめます。死亡したばかりの男性が横たわるベッドのそばに座って、パートナーの女性が穏やかな表情で紅茶を飲んでいる。視聴者が期待していた「正しい」反応はこれじゃなかったと思います。だけど、不思議に温かい光景でした。救急車がなかなか来なかった時間の彼女の不安や恐怖心、パートナーが亡くなったショックと悲しみ、そうした負の感情の塊を、一杯の温かい紅茶が溶かしていることが伝わったからです。大きな悲劇を経験している人を前にし、敢えてまっすぐなリアクションを取らなかった救急隊員の機転がもたらした癒しだったと思います。

 このように、まっすぐではない、ねじれた反応(=道からはずれる邪さ)には人間の生活にいい意味での軽さと温もりをもたらす力があるように思います。

 無邪気さは純粋さと結び付けられて最上のもののように思われがちです。が、何でも額面どおりに受け取ってストレートに反応しなければならない世の中になれば、人間の生活からユーモアが失われ、深刻でギスギスした場所になってしまう。それは殺菌された純白の真綿をみずから口と鼻に詰め込んで窒息するようなものです。

 有邪気と無邪気。

 そもそも邪気という言葉は、病とか、正しくないこととか、さまざまのよからぬことを意味しますが、人間の生活は邪気にまみれたものですよね。ブリティッシュ・ユーモアは、正邪の双方あってこそ人間なのだということを思い出させるものなのかもしれません。

 ・・・

 

P14

 ブレイディさん、人間って言語上で一人歩きを始めるものなんですね。お名前はお書きになってる文章でとっくに知ってますし、お顔を新聞紙上の写真で拝顔の栄に浴していますので、「ブレイディみかこと申します」というご挨拶をブリティッシュ・ユーモアと考えていいのでしょうか。

 私は以前小学校へ話をしに行った時、子どもらに「あ、ナマ谷川だ、まだ生きてる!」と叫ばれたことがあって、これは素直に嬉しかったのですが・・・

 ・・・

 ・・・ブレイディさんの現実的実際的で明快な散文に、詩の朦朧体でご返事することを許してくださいますか。

 

 萎れた花束

 

 道端に数本の萎れた野花が捨ててある

 小さな花束にして誰かに贈ったものらしい

 受け取った誰かの気持ちはどうだったのか

 捨てた際の気持ちの荒れは…

 

 スマホに保存された何気ない映像から

 作家は物語の最初の一行を思い浮かべるが

 詩はもうそこで完結しているのだ

 と 彼は思う

 

 根を実生活の土壌に下ろしたいのに

 詩は無重力の宇宙に浮遊し

 道端の萎れた花束に目を留めて

 それをコトバにしようとするけれど

 

 人の役に立たないそのミクロな行動は

 地球上の人類が直面している困難と 

 なんの関わりもない

 と 彼は考える

 

 しかし水たまりで朽ちてゆく小さな花束が

 いま自分の生きているこの時空に属している事実に

 深い畏敬の念とともに

 ささやかな歓びを感じているのを否定できない