とても面白かったです。
発想のセンスが絶妙だなーと思いました。
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・・・私は、うだうだと無気力な日々をクーラーの効いた部屋で送っていた。
・・・
このままでは、自分だけが何もしないままに、夏を終えてしまう。
私は焦った。とりあえず、人生においてそうそうないこのサマーバケーション期間において、なにかひとつくらい思い出を作っておきたい。・・・
・・・
そうだ、磯があるではないか。こんなに時間を持て余している夏なのだから、磯に行かないで、どうするんだ。
思い立ち、そのまま私はシュノーケルセットを手に、車へと乗りこんだ。不安はひとまず、涼しい部屋に置いておくことにした。
・・・
・・・地元の少年たちだろうか、色濃く焼けた肌で海中に差しこむ太陽の光を受けながら、慣れたバタ足でスイスイと私の前を進んでいく。
・・・
ひとりの少年が、岩礁の深みへと、ずんずん潜っていく。
やがて砂底に辿りつくと、そこで「ズッ」という音を立てて、ヤスのゴムを弾く。
そして、スーッと垂直姿勢で海面に浮上してくる。ヤスの先に、なにかが揺れている。
驚いた。ヒラメだ。
それも、かなり大きい。A3サイズのヒラメである。
ウソだろう。そんなの、獲れちゃうのかよ。ヒラメといえば、高級魚じゃないか。・・・
唖然としている私を尻目に、ほかの少年たちも次々とヤスを弾く。そして、大人の頭ほどもあるカサゴやキジハタを狩り、満足したように岸辺へと戻っていく。
そっと後を追いかけ、私はまたしても驚愕する。砂浜に置かれた彼らのクーラーボックスをチラッと覗き見ると、バラエティ豊かな魚たちがどっさり詰まっているではないか。この量、三日かけても食べきれるものではない。
……ん?……三日かけても、食べきれない?
……あれ、これ、もしかして、いけるんじゃないのか?
瞬間、私の頭の中に、なにかが鳴った。
・・・
そうだ、ヤス一本をもってすれば、磯は「ベーシックインカム」に成りうるのである。
・・・
こうして私は、ヤスだけを資本に、「一週間の磯生活」が可能なのか臨床実験を行うことにした。つまり、浜辺でキャンプしながら、すべての食料を海から調達するという試みである。
・・・
正直、一日目の漁獲量は、実に乏しかった。
完全に「魚突きビギナー」である私は、どうにもヤスを上手く使いこなすことができないのだ。魚の姿を認めても、モタモタとしているうちに逃してしまう。
・・・
・・・三日目、四日目と経ていく中で、私は魚突きの腕をみるみる上げていった。
クーラーボックスの中が、魚で満たされていく。
午前中に獲った魚を昼に焼いて食べ、少し浜辺の岩陰で昼寝などをしてから、また数時間ほど潜って、夕食を探す。私はすっかり、社会生活の枠外の人となっていた。
こうして思ったのは、「磯の経済はコスパがよすぎる」ということである。
・・・
五日目ともなると、浜では調理しきれない量の魚を獲るほどになっていた。そこで私は一時帰宅して、それらを昆布締めの刺身などにし、冷蔵庫で保存することにした。
帰り着くなり、久々のシャワーを浴びる。それからまな板に魚を並べ、それをうっとりと眺める。いける、いけるじゃないか、磯生活。私は満ち足りた想いを感じていた。
そうだ、しばらくメールをチェックしていなかった。そう気がつき、数日ぶりにPCを開く。ついでにネットバンキングで、生活費の入っている口座の残高を改めて確認する。先日ATMで表示されていたのと寸分変わらぬ額が、そこには現れる。
あれ?不安が、薄い。頭が、重くならない。「呪いの歌」が、聴こえない。
生活の中で非常に纏わりついていた「圧」のようなものが、明らかに軽くなっている。
この日は自宅で魚を調理し、それを食べ、ベッドで眠ることにした。しばらく味わったことがないほどの、それは穏やかで安らかな眠りだった。
・・・
磯の魚や貝に食を頼る生活を一週間続けていた最中、私はアベレージにして「一日一食」のリズムで食べ物を口にしていた。そういうルールを設けていたわけではなく、獲物を手にすることができる日とそうでない日に極端なバラつきがあり、とてもではないが「一日三食」を叶えることが難しかったのだ。
だが、「一日一食」生活は、非常に満ち足りたものであった。
・・・
そういえば、「一日三食、必ず食べろ」って、あれは誰が言い出したことなのだろう……。
「一日一食」でも、明確に生きることができたぞ……?なんなら「一日三食」の時よりも、調子がよかったぞ……?
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そこで私は、手始めに簡単な断食に挑戦してみることにした。なにも食べず、口にするのは水だけと決め、三日間を過ごすことにしたのである。
・・・
劇的な変化が起きたのは、三日目のことだった。
朝、起きるなり、頭がシャキッとしていたのである。
私は万年低血圧で、布団から起き上がっても普段一時間ほどは正常に思考が起動しない。それがどうしたわけだろう、今日は起きざまに視界がクリアで、なんだか言いようのない活力に溢れているのである。水を少しだけ飲み、そのままノートPCを開いたかと思えば、あっという間に原稿を一本、終わらせてしまったではないか。なんだ、どうしたんだ。急に人生のクライマックスシリーズが始まったのか。
いや、違う。私はハイ状態になっていたのだ。断食が「キマって」しまっていたのである。
これはあとで知った話であるが、断食をすることで躁状態を経験する人は多いらしい(もちろん、個人差はあるだろうが)。・・・
・・・
怖くなった私はその夜、空腹感など微塵も伴っていなかったが、国道沿いを走り、丸亀製麵でぶっかけうどん(並・冷)を食べた。すると強烈な眠気に襲われ、ハイ状態は強制終了、ふらつきながら布団へと飛び込んだ。こうして三日間の断食は終わった。
明くる朝、目を覚ませばそこにはきっちりと低血圧が待ち受けていて、頭はいつもの通り、濁っていた。数時間後、空腹感もしっかりと現れた。
・・・
それからというもの、私は毎週「三日間の断食」を試すようになった。
コンスタントに断食を取り入れているうちに、明確にふたつの成果が現れた。
ひとつは、暮らしの能率が目に見えて上がったことだ。一週間のうち、三日間は「一日三食」の縛りから解放されるわけだから、極端にゆとりが生まれる。・・・その発生した時間で音楽を聴き、本を読み、誰かに手紙を書く。なんとも質の高い生活が、そこに誕生するのである。しかもかならず三日目にはハイな状態を迎えるわけで、仕事もスイスイ進んでいく。
・・・エンゲル係数も低下し、いままで常に纏わりついていた謎の切迫感も薄まっていく。
・・・
いったい、どこまで「食べない」は持続可能なのだろうか。
「食べない」を続けていると、なにが起こるのだろうか。
私はドキドキしながら、「不食」をスタートさせた。
・・・
四日目。ハイな状態は持続されていた。・・・穏やかで健やかで、そして静かなハイ状態だ。
要は、身体が軽やかなのである。
きっちり、眠気も訪れる。依然として、なにかを食べたいなどと思うこともない。食べてもいいが、べつに無理して食べなくてもいいや、という感じなのである。口にするのは水分だけでいい。
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「不食」を続けて、六日目の夜。私はお湯を沸かしていた。お茶漬けを食べるのである。
もう「食べない」は終わりにしていいかな、と思った。無理が来たというより、単に飽きてしまったのである。それに、このまま続ければ、なんだか「食べない」ではなく「食べられない」の状態に陥ってしまうような気がしたのだ。
お茶漬けの素を白飯にふりかけ、そこにお湯を注ぐ。胃の奥がキュッと鳴るような、久しぶりの感覚が現れる。
ゆっくりと箸を動かす。美味しい。食べ物って、こんなに美味しかったっけ。
今回、「不食」を試してみて得たものは、ふたつだった。
ひとつは、「やっぱり何事も真剣にやるものではないな」という感想である。
どんなことだって、ライトな感覚でトライできれば、それが一番だ。修行みたいな「断食」や「不食」には、どこか違和感を覚える。でも、レジャー感覚で飢餓を味わうことは、けっして悪いことではない。少なくとも、身体は軽くなり、気分はクリアになる。そして、お茶漬けは美味しい。
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もうひとつの、得たこと。それは、自分の身体の中に「奥の手」が潜んでいる事実を知れたことである。
たとえ食べられない状況に陥ったとしても、私の身体はしばらくの間、生きることを維持してくれる。そのボーナストラックは、案外に長い。だから、「いつか食べられなくなったらどうしよう」という不安を強く抱く必要はない。・・・
・・・
そして、ついでに、忘れかけていた「食べること」の喜びも、知ったのだ。