パリの空の下で、息子とぼくの3000日

パリの空の下で、息子とぼくの3000日

 辻仁成さんと息子さんの日常を綴った一冊。

 いろんなことを感じながら読みました。

 

P124

 7月某日、不意に息子が友だちのアンナちゃんと、そのご両親、その姉妹、その姉妹の友だちとベルギーとの国境に近い海沿いの村に旅行に出かけることになり、なにせ、それを知ったのがつい昨日のことで、慌てて寝袋やお土産を買いに走ったり、トランクに服とか歯ブラシとか寝具類をパッキングした。2週間ほどそこで共同生活を送るというので、・・・

 ・・・

 ・・・お父さんはいるにしても、18人もの女性だらけの合宿みたいな旅に参加したい、と言い出すのだから、ある意味、息子の成長ぶりに驚きもあった。・・・

「アンナと君が一番年上だということだから、アンナのお父さんの手伝いとか、力仕事とか、率先してやるように。いいね」

「うん、わかった」

「着いたら、必ず、連絡するように」

「うん、わかった」

 ・・・

 ・・・息子がアンナちゃんの家族と夏休みの合宿旅行に出てから1週間ほどが経った。毎日、「Ça va ? (元気?)」とメッセージを送っていたが、「oui(うん)」しか戻ってこないので、それが何日も続くものだから、さすがにこのやりとりだけじゃいかんと思って、ついに、父ちゃんは重い腰を上げ、息子に直接、電話をかけることになった。

「毎日、何してんの?どんな生活おくってるの?」

「うん、楽しいよ。大丈夫」

「あのさ、大丈夫って、もうちょっと具体的に教えてくれない?一応、ひと様の家に息子を預けてる親の身としては心配なんだよね?手伝いとかしてんの?」

「あ、ご飯食べたら、僕も食器洗ってるよ。順番で片付けないとならないんだ」

「へー、皿洗いとかできるの?だいたい、そこ、どんなところなの?」

「とっても田舎の家だよ。周りに何もない、畑とか草原とかの途中にぽつんと建った、ほんとうに小さな村の一角の古い家、豪華じゃないけど、でも、とっても居心地のいいところだよ。庭があって、ハンモックが木と木のあいだにぶら下がっていて、そこで昼寝することもあるし、庭で食べる時もある。パリとはぜんぜん違う。家が周りにないから、星がきれいで、みんなといろんなことを話すんだ」

 ・・・

「・・・あのね、こういう幸せもあるんだって、気がつくことができた。経験になった。大家族っていいなぁ、と思った。僕も大人になったら、誰かと結婚をして、家族を作って、田舎で暮らして、子供たちと一緒にご飯を食べたい。高級料理じゃなくても幸せなんだ、昼も夜もシンプルなピザとかパスタだけど、でも、みんな幸せなんだよ」

「・・・お手伝いって、すごく楽しいんだよ。そこに参加できること、誰かに認めて貰えること、信頼して貰えること、大人として扱って貰えていること、すべてがとっても素晴らしいんだ。僕は家では何もやらない子だけど、でも、ちょっと変わったかもしれないよ。これをやりなさい、あれしなさい、というのがなくても、しなきゃって勝手に身体が動くんだ。自分から仕事を見つけていくというのか、直したり、片付けたり、誰かに何か言われる前に、自分で率先して考えてその中の役割をこなしている。毎日、そんな自分にびっくりしているよ。そういう家族の中にいられて、今はとっても幸せだから、心配しないでいいよ。メールで書けないんだよ。パパはフランス語読めないし、僕は日本語書けないし、だから、いつもouiだけだけど、でもそのÇa va ? (元気?)とoui(うん)のあいだにこんなにたくさんの大切なことがあるんだよ。だから、心配しないで。パパはパパの時間を楽しんで。もっと話したいことがあるけど、それは帰ったら、ちゃんと話すからね」

 ・・・

 ・・・

「あのね、パパは誰かいないの?」

 いきなりだったので、ハンバーガーが喉につっかえてしまった。

 コーラで胃に流し込んでから、変なこと聞くなよ、と戻した。

「家族っていいよ。確かにパパが懲りてるのはわかってるけど、僕が結婚して家を出たら、パパ一人になる。考えてみてよ。100歳まで生きるならまだ人生、残り40年もあるんだよ。パパは絶対長生きする。白髪もないし、ストレスないでしょ?」

「あるよ」

「でも、今はいいけど、そのうち寂しくなるよ。いつまでも自分を責めて生きても仕方ないよ。僕は勝手に大人になるし、パパはほっといてもおじいちゃんになる。寂しさを埋めるためじゃなく、同じような価値観を持ってる人がい。心の痛みを分かち合えるし、逆に、楽しく生きればいいじゃない。きっとパパの料理を喜んでくれるはずだ。僕も寂しくなくなるし」

「……」

「家族って、日々に意味を教えてくれる存在なんだと思う。僕はアンナの家族からたくさんのことを教わった。一人一人の役割りとかがちゃんとあって、羨ましかった。お父さん、お母さん、娘たち、従兄がいて、その友だち……。パパと二人で生きることができてよかったけど、ずっと二人っきりというわけにはいかない。僕が家族を作るまでにはまだまだ時間がかかる。僕のことなんか気にしないで、探しなよ」

「パパは向かないんだよ。一人が好きだし、ご存じの通り、なかなか難しい人間だからね。こういう変な人間と好んで生きてくれるモノ好きはなかなかいない、ってか、パパはもう期待してない。期待しすぎるから、人間は苦しくなんだよ」

「それ、パパの口癖だけど、間違いだ。アンナの家族はみんな期待し合ってた」

 ぼくは驚いた。居心地が悪くなった。

「アンナのお父さんは、アンナに期待していたし、アンナはお母さんに期待していたし、妹たちも、アンナに期待していた。みんな、ものすごく家族に期待していた。僕は羨ましかった。期待し合えるってすごいことじゃない?」

 息子の視線から目を逸らしてしまう。

「パパはきっと期待をしなかったんだよ。期待を裏切られるのが嫌で……。でも、期待をすることの方が大事だ。たとえ裏切られても、期待し合える関係って僕は素敵だと思う」

 息子に説教をされてしまう。途中からフランス語になっていた。

「田舎の暮らしって、期待しかないんだ。人数が少ないから逃げ場がない。だから、開かれた期待をする。僕は期待されたから、掃除をしたり、朝ご飯を準備したり、片付けたりしたけど、それは悪くなかったし、嫌じゃなかった。むしろ、みんなに期待されたことで、自分の存在理由が、役割が、意味がわかった。期待の向こうに、ありがとう、があった。ありがとう、と言われると、またがんばろうって思える。それは、悪いことかな?人間らしい。パパ、他人に期待してもいいんだよ。期待しないだなんて、思うからうまくいかなくなるんだ。知ってるよ、パパがいつも最後は人を許していることを……。でも、そろそろ、パパも誰かに期待をして生きてもいいんじゃないの?」

 地平線の向こうに、夕陽が沈もうとしていた。