本をつくるという仕事

「本をつくる」という仕事 (ちくま文庫 い 100-1)

 「本」をめぐる人々に話を聞いた記録、大好きな本の周りにこんなにいろんな人生が・・・と興味深かったです。

 

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 ・・・日下さんの話を聞いていて興味深いのは、作品を読んだり著者に会ったりするかどうかについても、彼が次のような明確な考え方を持っていることだ。

 例えば、装幀家がその本をデザインするにあたって、内容を読むのは必ずしも当たり前のことではない。編集者との打ち合わせでイメージを膨らませる人もいれば、内容をじっくり読み込んでデザインに活かす人もいる。日下さんはそうした著作に対する自らのスタンスをこう語るのだ。

「僕の場合、本は確かに読むんやけれど、あまり深く読みすぎてもあかん、と思うとるんです。あまり中身を読み過ぎて、デザインが作品の内容の批評になってはいけない。そこがいちばん気を付けているところ。本ってね、どんなにくだらないものでも一行くらいはいいことが書いてあるもんですよ。そこをデザインで取り上げるんやね。だって、この仕事はこっちが芸者で本が旦那やから。嫌いな相手でも、その前で芸者は踊らなあかん」

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 ・・・現在のようにブックデザインの仕事を多く受けるようになるのは、まだ少し先の話だ。

 当時、彼は前述の通り『プレイガイドジャーナル』の表紙や中身のデザインを主な仕事としていた。そもそもそこに至るまでにも、様々な紆余曲折があった。

 ・・・一八歳になっても定職に就かずにいることを心配した友人が、伝手を頼って紹介してくれたのが大阪のデザイン事務所だった。

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 しかし、結局、日下さんはこのデザイン事務所も一年ほどで辞めてしまう。

 あるときメーカーの社員が「この商品はまだ欠陥があんねんけど、上が出せいうから広告打つねん」と言っているのを聞き、「嫌な気分になった」のが理由の一つだったという。学生運動が花盛りだった時代の気分にも影響された。

「まだ一〇代やったから、社会正義みたいなもんもあったんやろね。子供の考えやったけれど、そういう欠陥商品の宣伝なんかに加担しないで、もっと純粋に自分のデザインをやるべきやって。それなら自分のメディアをつくるのが一番ええということで、友達と一緒につくったミニコミを心斎橋の大丸デパートの前で道行く人に売るようになったんです」

 そのときのミニコミにこれといったテーマはなく、「自分がデザインするために中身をでっちあげた雑誌」だった。

 ・・・このとき道端で出会った何人かの「客」が、フリーランスのデザイナーとしての日下さんのキャリアへと繋がっていくのである。

「あの頃は街に学生運動をしている活動家、自主映画や音楽をやっている若者がけっこうおってね。路上でミニコミを売ってる奴なんて他におらへんから、面白がって近づいてきた連中と友達になったんです。それで自主上映のポスターを頼まれたり、謄写版でロックの新聞をつくったりするうちに、知り合いが広がっていったんやね。

 ・・・そのなかで『プレイガイドジャーナル』の編集者とも知り合って、「表紙をやらへんか」と仕事を頼まれるようになったんや」

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「この時期で最も自分にとって大きかったのは、いしい(ひさいち)君の『ドーナツブックス』(双葉社)の装幀を担当したことや」

 と、日下さんは懐かしそうに振り返る。

「彼が『プレイガイドジャーナル』で「バイトくん」を発表していたのが縁でね。新書版のシリーズもののコミックのカバーを三色にあしらって、巻ごとに色のバリエーションを変えたんや。編集していた村上和彦くんたちが『ピーナツ・ブックス』というスヌーピーの単行本を意識してなァ」

 彼は新刊が出るたびに色違いの三色のラインが入る『ドーナツブックス』を、「不二家の三色キャンディ」と呼んだ。

「これがずいぶんと編集者から高く評価されたんです。いま思えば、それが東京に出てくる一つの大きなきっかけやった」

 日下さんは一九八五(昭和六〇)年、東京・高田馬場に小さな事務所を構えた。

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 ・・・この頃の最も印象深い仕事は、関川夏央著『海峡を越えたホームラン』(双葉社)をデザインしたことだ。

 講談社ノンフィクション賞を受賞した同作は、発足したばかりの韓国プロ野球を舞台に、日本から参加した在日コリアンの選手たちの悪戦苦闘を描いた物語である。日本と朝鮮半島の異文化を論じた傑作だが、日下さんは著者の関川氏の取材にも同行した。

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 ・・・そうした体験をなるべくブックデザインに投影したいというのが彼のスタイルだ。

 同作では裏表紙に主人公の一人である選手・福士明夫の写真を大胆に載せ、表紙はクリーム色の下地に複数の書体を使用したタイトルと著者名を配置した。

 こだわったのは、表紙に細かな木材片を漉き込んだ「ミューズカイゼル」(繊維分が和紙のようにちりばめられた紙)を活かすことだった。その素朴な風合いが、オリンピック前の韓国の街や球場で感じた、殺風景ながらもどこか懐かしい雰囲気を表現していると感じたからだった。

 ただ、そのためには工夫が必要だった。実際にカイゼルを使用すると、裏表紙の写真にも繊維カスが入り込んでしまう。写真が汚れたように見えてしまっては台無しである。

 そこで日下さんは「パミス」(竹尾のウェブサイトでは<暖かみのある軽石に似たフェルトマークの紙>と紹介されている)という紙に、カイゼルそのものを印刷することにした。パミスの柔らかくて軽い手触りに、木片がちりばめられたカイゼルの調子を組み合わせ、双方の「いいとこ取り」をしたわけだ。

「紙に紙を印刷すれば、誰も見たことのない風合いをつくり出せるからね。写真も活かしたいし、カイゼルも使いたい。それを両立させるための方法で、当時はずいぶんとそういう工夫をしたもんです。書体をいくつも使っているのは、まァ、若気の至り。いまではなるべく書体は一つにして、シンプルなデザインを心がけとるから」

 さて、こう当時を振り返る日下さんが、デザイナーとして影響を受けた人物を一人挙げるとすれば、それは上京の前年に木下順二著『本郷』のデザインで講談社出版文化賞を受賞した平野甲賀氏だろう。

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 平野氏は自著『平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち』のなかで次のように書いている。

 

 ―装丁が本と読者をつなぐんじゃない。本と読者をつなぐのはあくまでもその本の中身だと思う。装丁は、ちょっとしたサービス。ぼくができることといったら、その出版社がある感じをもって本を出しつづけている―その動きをサザナミみたいに、できるだけ気持ちよく表現していくことじゃないかな。

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 また―

 

 出版社の動きだけじゃなくて、世の中の動きというやつがあるでしょう?本には「出るべくして出る時期」があると思う。なぜその本をその時期に出したいのか。そのことがきちんと呑みこめれば、それだけ生きた本ができる。その時期にうまくはまって、そのことがはっきり意識できる本がつくりたい。ウソでもいいから、そのことを編集の人たちに納得させてもらいたいということですね。

 

 日下さんにはこのような平野氏の考え方を、自分なりに解釈して受け継いできたという思いがある。

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 ブックデザイナーが装幀した本は、最終的に書店に並べられる。その集合体である平台や棚の風景は、一つの「時代の空気」をつくり出すことにもなるからだ。

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「たとえお金をかけなくても、宝石みたいな本はつくり手たちが必死に手間と時間をかけて工夫をすれば、つくれるはずなんや。それを見て「こんな本をつくりたい」と思う人がいる限り本は残っていくやろ。そのためにはやっぱり紙の本が美しくなければあかんのですよ」