それでも同じ人間だ

僕たちはなぜ取材するのか

 こういう視点、大事だなと思いました。

 

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藤井 いま圡方さんは新しいドキュメンタリーの取材を始められていると思いますが、どうしてドキュメンタリーを撮るという行為に駆られるのですか。テーマによって違う個別的な動機というより、ドキュメンタリーへと自分を突きうごかすもの、といったらいいのかな。

圡方 特別な思いに駆られてとか、なにかに突きうごかされてという感じではありません。

 あくまでも、日々の生活のなかで気になったことをもっとくわしく知りたいという、漠然とした興味がスタートのきっかけになっているように思います。

 社会に対する憤りや理想というものが根底にないというのは、ドキュメンタリーに携わるものとして不適格なのかと思ったときもありましたが、最近では長い期間をかけて漂いながら撮るという東海テレビのスタイルには合っていると考えるようになりました。

 むしろ、理念や大義だけで作品を作っていくという行為に、最近ではどこか危うさも感じます。

 自分の思いが強すぎることで「~に違いない」「~でないと受け入れられない」と体がこわばり、都合の悪いものを切り捨てたり、過度な演出を持ち込もうとしてしまいかねません。それが、いまのテレビが視聴者にそっぽを向かれ始めている理由のひとつにもなっているんじゃないでしょうか。

 メディアの人間、とくにドキュメンタリーをやっているなんていうと、高邁な理想に燃える正義の人というイメージでしょうが、実際はそうじゃない。悩んだりサボったり、ビクビクしながら取材をしています。でも、もしなにか共通して流れるテーマを探すとするならば、取材対象に対し、根底に「それでも(彼らも)同じ人間だ」という思いがあるのかもしれません。

 一〇〇日以上の取材をしていると、一般的に「悪」や「敵」とされる人たちにも、どこかしら愛すべき部分が見えてきます。それは取材者であるわれわれと同じ人間臭さであり、それが見えた瞬間に彼らを突きはなすことができなくなるんです。異分子だと思っていた存在に自分と同じところがあるというのは、見たくない事実かもしれませんが、その事実を提示することで、見た人たちのなかでなにかが変わってくれていればいいな、という思いで作っています。