路上の熱量

路上の熱量

 タイトルの通り、熱量が伝わって来る本でした。

 どんなスタンスで書かれたか、巻末に著者とドリアン助川さんの対談がありました。

 

P234

藤井 僕の場合はノンフィクションですから、ある種の枠というか縛り、手かせ足かせがあります。自分が「こういう人だろうな」と思っていたのがどんどん外れていく場合もあるし、世間でこうだと言われているイメージとは差異が大きい場合もあります。でも、そこから自分で勝手に人間像を膨らませていくことは、手かせ足かせがあってできない部分があるんです。ただ、何度も会って、いろいろ質問の仕方を変えてみたり、相手の思い入れのある場所に行ってみたりすると、違う答えが聞けたりする。・・・どちらの言葉がその人の本当の気持ちなんだろうって。ですから、そういう発言を一つのカギカッコにまとめる時は、ある意味でフィクショナルな感じになるということです。

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 ・・・おおげさに言ってしまうと、相手はいつも「変化」して「流動」しているわけです。そのどこをノンフィクションとしてとらえるか、切り取るのか。

助川 ルポルタージュであれ小説であれ、まさしくそれが正しいと思う。なぜかと言うと、人間存在というものを考えた時、単独で存在できるものは何一つないから。人間にかぎらず言えることですが、すべては何らかの関係性の中にあって存在できる。小説「あん」の大テーマもそこなんです。この大きな宇宙ですら、それを眺める者の心がなければ存在しえない。あらゆるものが、関係性の中にあって初めて輝くということなんです。・・・

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 ・・・だから質問を変え、状況を変えることによって人間が見えてくると藤井さんが言っているのは、まさに関係性のことですよね。・・・

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藤井 助川さんの話を聞いてふと思いました。僕は事件もののルポが多いんですけど、有名な事件よりは報道されなかった事件を細かく取材していくことに関心がある。・・・そういう習性の原点みたいなものは、子ども時代に形成されたような気がします。

助川 もし親が一部上場企業の重役だったら、こういうふうにはならなかったかもしれないですよね。でもね、三十代ぐらいまでは、国の理想って何だろうとか、まず「国」からものを考えてたこともあるんです。それが最近、ことごとく話が合わないのはどういうタイプかなっていうのがわかってきて、「大きなところ」から話をしていく人がだめなんですね。「国がこうあるべきだから、イコール人はこうあるべきだ」っていう思考パターンの人がいっぱいいる。その図式が俺とは全く肌に合わない。

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 ・・・国の形が変われば人だってある程度我慢しなきゃいけないんだ、って話す人たち。原発問題にしてもなんにしても、そういう人はことごとく話が合わないですね。

 一人の人間を描くことによって社会を変えようとか、そんな思いで書いてるわけじゃないんです。一人の人間が、そこそこ充足したと言えるような人生を、思い通りにいかないことの方が多いんだけど、生まれてよかったと思える人生を送るためには、どんな社会がいいのか―、そういう逆の計算なんです。自分の仕事は、生きている人間の心を書くことでしかないんです。

藤井 この『路上の熱量』には十二本のルポを収録しています。それぞれ名を成した仕事をされている方や、家族を無残なかたちで奪われてしまった方ですが、売名的なことには関心がなく、黙々と孤高に仕事や使命を果たされている人たちです。そういう人にどうしても僕は興味がある。仏陀の死に際のことば、「犀の角のようにただ独り歩め」が、ずっとぼくの頭のなかにはあります。

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 ・・・昔はあまり人物ルポとか書かなかったです。正直やっぱり怖かったし、自分がいろいろな人生経験が少ないから、なめられるっていうのもあった。何よりも、ぼくは人間―とくに初対面の人―と話すのがすごく苦手なのですが、取材モードにシフトするといろいろ聞きたくなるんです。そしてじぶんなりのその人の「切り取り方」や表現ができると、ああこの人に会えてよかったと思う。いろいろな立場や境遇の方がおられますが、いろいろな熱量がもらえたなと感謝をしたくなって、これを少しでもたくさんの人に伝えたいなと思えるようになるのです。