ムヒカさんが大切に思っていること、印象に残りました。
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その夜はぴりぴりと顔が痛むような寒さで、風も強かった。・・・「空港に行くぞ」ムヒカは突然ドライバーに指示した。「今すぐに」ムヒカは到着時間が正しいかどうかさえ確認しなかった。
七月二十六日木曜日。午後八時にカラスコ国際空港に到着してからしばらく待っていると、ムヒカはサッカー選手のルイス・スアレスがブラジルのナタルからまだ帰途についていないことを告げられた。国際サッカー連盟(FIFA)は、ウルグアイ代表としての公式戦九試合出場禁止と、スタジアムへの入場禁止を含むサッカー関係の活動の四ヵ月間禁止という処分をスアレスに下していた。さらに、まるでそれでは十分ではないとでも言うかのように、彼は代表チームのメンバーと共に滞在していたホテルから強制退去させられ、まるで犯罪者のように扱われた。これはすべて彼がワールドカップでの試合中にイタリア人代表選手に嚙みついたことが原因だった。ウルグアイの全国民はこの厳しい処分に憤ったが、海外で怒りを買っていたのはむしろスアレスのほうだった。
世界がなんと言おうが、ムヒカには関係なかった。彼は、スアレスがウルグアイに帰ってきたら、まるで被害者か、あるいは英雄かのように出迎えることに決めていた。しかし、その夜彼は戻らなかった。ようやく到着したのは明け方になってからだったが、大統領は飛行機の脇でちゃんと待っていた。到着が遅延したため、ムヒカは一度自宅に帰り、数時間仮眠をとってから戻ってきたのだ。何があってもスアレスに会うと決めていた。ムヒカは、控えめながら心のこもった力強い抱擁で彼を出迎え、アンチョレナの大統領別邸に数日間来ないかと招待までした。
「大統領。本当にありがとうございます。この寒い中、ここにお出でいただいたなんて信じられません。そんな必要はなかったのに」とスアレスは驚いて言った。
彼はつらそうに、途切れ途切れの声で話した。
「なあに、君がこのつらい時期を乗り越えられるように、力を分けてやろうと思ったんだよ。いいかい、どんな嵐もやがて過ぎ去る。どんな嵐もだ。だから、気をしっかり持って落ち着いていなさい」とムヒカは彼を励ました。
その一週間後、ウルグアイ代表チームがベスト8決定戦でコロンビアに敗れ、ブラジルから帰国した際にも、ムヒカはチームを迎えるために再び空港に出向いた。・・・ジャーナリストのセルヒオ・ゴルシーは、・・・FIFAについて大統領の意見を求めた。「あいつらはろくでなしの年寄り野郎どもの集まりだ」。・・・カメラに気づいたムヒカは思わず口を押さえ、いたずらっぽく微笑んだが、この発言の放送を許可した。
・・・ウルグアイ国民の大半はムヒカと同じように考えていたので、このような罵りの言葉も共感を得たが、国際的には、融和を図る平和主義者というムヒカのイメージを薄めかねなかった。そのため、アドバイザーはムヒカを非難し、謝罪の提案まで持ち上がった。「あいつらは私のことをわかっておらん。スアレスみたいな素晴らしい青年を私は絶対に見捨てたりはせん」というのが、反省を拒む彼の主張だった。
・・・
ムヒカはこのセンターフォワードのこれまでの人生を知ってたからこそ、彼を擁護し、彼の行為を正当化しようとした。貧困家庭に生まれた子どもが、どうやって世界の一流スポーツ選手になり、自分の貧しい過去を笑いとばせるようになるのか、なぜ実社会から処世術を学んだような教育のない人たちが優秀な大学を出た人たちよりも成功するのかを知ることに関心があった。いくらそれが一筋縄ではいかない道であったとしても、人とは違う道を進む人たちをムヒカは尊敬した。
「スアレスは、下から這い上がってきた素晴らしい若者だ。彼のことはよく知っているし、貧乏人ならではのずる賢さも持っている。とてもいい青年だ」。
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・・・サムエル・リーベルマンというアルゼンチンの実業家で、メディア媒体とホテルチェーンを所有している。リーベルマンとは、ムヒカが大統領になる数年前に、元産業大臣のホルヘ・レプラを通じて親しくなり、とても良い関係を築いた。ムヒカは、彼の進取の気鋭に富んだ話や、まるでレンガをひとつひとつ積み上げて小さな帝国を築いていくかのようなやり方が気に入っていた。リーベルマンは、この元ゲリラの老人に、信頼できるが変わり者という印象を植えつけた。
ムヒカの大統領就任の数ヵ月前、リーベルマンはムヒカとルシアをプンタ・デル・エステの邸宅に招待し、その圧倒的な広さに二人は腰を抜かすほど驚いた。後日ムヒカは、「いつまで経ってもなかなか家に辿り着かないんだ」と語ってくれた。
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・・・数年後、今度は大統領としてリーベルマンに再会したとき、彼が新しく始めたという事業がムヒカの関心を惹いた。まず、彼の年齢で新しい事業を立ち上げようとしたことがムヒカには信じられなかった。
リーベルマンはもうかなりのじいさんだから、事業を全部息子に譲ったんだが、今度はケニアに行って花を育てて、それを売りはじめたんだ。エクアドル人を連れていったそうだ。彼らはバラ作りの名人だからね。そしてあっちで商売をやっているのさ。あのじいさんはすごい。八十歳でケニアに行ってゼロから商売を始めるんだ。冗談言うなよって感じだろう!こういう人たちの言うことはよく聞かなければならんと思うんだ。年をくっていてカネも山ほど持っているのに、それを楽しむためだけに生きているんじゃない。新しいものを生み出すエネルギーにあふれているのさ。もうこれは尊敬以外の何ものでもないし、本当の模範的人物とは彼らのことさ。