生物との感応

未来のルーシー ―人類史のその先へ―

 この辺りも印象に残りました。

 

P149

中沢 前にもお話ししましたが、私が京大サル学にすごく惹かれた原因は、伊谷純一郎さんがサルに囲まれて眠っている写真を見たことです。釈迦の涅槃図みたいだと思いましたし、そこに表現されている伊谷さんの思想―サルと人間の相関性を表すのに、人間が立たずに寝そべっていて、周りでサルがそれを見ているという構図をとること―が京大サル学の一つの思想的表現なんだろうなと感じたのです。

 

山極 おっしゃる通りですね。私はゴリラの群れのなかに寝ころんで、彼らが自由に振る舞うところを近くで観察したわけです。そこまで行かないと、実際の観察はできません。そのとき、自分で身を投げ出すわけですね。向こう側に、生の体を入れてしまう。そういうことにはかなり度胸が要ります。

 私もニホンザルに囲まれてどうしようかと思ったことがあります。ニホンザルはイヌと違って三次元で攻めてくるのです。三頭いたらとても対処できません。それで恐怖のどん底に突き落とされるのですが、そこではかえってなせばなるような感じになるのです。メスのゴリラに前後を挟まれて、一頭のメスは私の頭を齧り、もう一頭のメスは私の足を齧って、大怪我をしたことがあります。そのとき、もう抵抗しようという感じはなくなっていました。しゃあないな、やつらがなすがままに任せておこう、と思うと、恐怖が消えるのです。そうすると、お互いを隔てていた壁がどこかで一ヶ所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界が眺められるようになります。これは体験してみないとわからないことかもしれませんが。

 先ほども少し言いましたが、われわれは今言葉で話をしているけれど、いろいろな動植物と会話ができる感性を持っているはずです。しかし、道具的知性から眺めてしまうと、すべて対象物になってしまいます。・・・人間は身体でもっていろいろな生物と感応しあって生きています。自分の頭のなかでは気づいていないかもしれないけれど、例えば温度も単に太陽の光だけがもたらしているわけではなく、植物が感じて日陰をつくったり、呼吸をしたりするなかで、われわれはその複合物としての気温・湿度を感じているのです。それはまさにコミュニケーションです。そういう感覚を、言葉によるコミュニケーションだけに重きを置くばかりに忘れがちになってしまっているのです。だからこそ、冷房のなかにいて、それが人間に快適さをもたらすものだとばかり思ってやっていると、人間の身体のフレキシビリティがどこかで崩壊してしまって、逆に不健康になってしまう。人間はつねに外部とコミュニケーションをとっていて、西田さん的な言い方をすれば、外部を抱え込んでいるわけです。人間の身体が気づかないうちに腸内細菌が反応しているということもあるわけですし。今西さんが言っていることですが、腸や胃などの管は、外部が人間の体のなかに陥入している状態なのだと。すなわちそこは外部であるということですね。・・・外部が人間の身体と同化しつつやりとりをしているのであって、まさにそういうところでいろいろなコミュニケーションなり感応なりが起こっている。レンマ的発想から言うと、いろいろなつながりを感じながら、そのつながりを網の目の一つとして働いている、頭のなかでは意識できない人間の身体があるのだということです。言葉が通じない動物とどこかで了解しあえる経験をすると、それに気がつかされるのです。

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 私がゴリラや自然との付き合いで学んだのは、曖昧なものは曖昧なままにしておこうということです。それは仏教の、ありのままにという考え方とよく似ています。つまり、正解を求めないということです。人間の頭で考えた論理的正解を追求しない。それが生き物との付き合いだと思います。他のところで了解しあっているかもしれないし、それに自分は気がついていないだけかもしれない。しかしそこでは身体が反応しあっているから、向こうは了解してくれる。ただ了解点を感知することが重要であって、理解を深めることが重要なのではありません。・・・つまり、深く理解しあうということは、自分が相手の対象になり、相手が自分の対象になるということで、自分が利用できる目的論的な話に従っていたら解釈をどんどん狭めていくということになる。そこで抜け落ちてしまうものはたくさんある。・・・