古の武術に学ぶ無意識のちから

古(いにしえ)の武術に学ぶ無意識のちから - 広大な潜在能力の世界にアクセスする“フロー”への入り口 - (ワニプラス)

 横尾さんの本で印象に残ったことについて、こちらの本ではまた少し違う角度から語られていました。

 

P14

前野 さっそくなのですが、先生のご著書『表の体育 裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛錬法』(PHP文庫)を読んでいて、とても感銘を受けた一節があったんです。

「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」

 これは、わたしの考えに非常に近いものがあります。まずは、この言葉のことを教えていただけませんか?

 

甲野 それは、わたしが21歳のときの気づきで、武術を志したきっかけでもあるのです。・・・

 ・・・この確信がわたしの人生のテーマであり、今もずっとそれを追いかけているわけですから。・・・

 

前野 そうなんですか。わたしも、心について「本当はないけど、ある」みたいなことをいっているんです。「受動意識仮説」といいまして、意識の上に浮かび上がってくる自由意志や感情やひらめきといったものは、すべて幻想のようなものであると考えています。だから、この一節はわかる気がするのです。ただし、普通に読むと「運命が完璧に決まっている」と「完璧に自由である」というのは、正反対にも聞こえますよね。これをわかりやすく説明することはできますか?

 

甲野 わかりやすく説明することは、もちろんできません(笑)。

 

前野 ははは(笑)。

 

甲野 矛盾していますから。でも、矛盾している構造こそが大切だと思っているんです。・・・

 ・・・

 たとえば、ものすごく悲惨なことや怖い出来事があると、人間は動揺し、いたたまれない気持ちになってしまいます。これをなんとかしたいと思ったのです。何しろこの運命の問題に納得がいけば、どういうときでもブレずにいられるでしょう。

 ・・・

「運命は決まっている」。しかし同時にわたしは「運命は自由だ」という確信もあったんです。その根拠のひとつが、アインシュタインの「光量子仮説」です。物理学において、光はずっと粒子だと思われていたのが、19世紀になって波であることがわかった。ところが、その後、あらためて粒子としての性質が確認されます。どちらなんだろう。みんなが困っていたところに、アインシュタインは「光は波であり、同時に粒子である」という考え方を提唱しました。異なるものが同時にある、という新しい概念でした。わたしは「ああ!人間の運命もそういうものだ」と思ったんです。・・・

 ・・・

 運命は変えられない。どうしようもない。でも、同時に人間には「自由である」という実感もある。ですから、「それはそれで事実だろう」と。両方を突き合わせれば矛盾しますが、それが、この世界の構造に違いない。21歳のときに、どうしようもないほど、そう強く確信してしまったんです。

 

前野 それが21歳の3月ですか。早熟ですね。

 

甲野 19歳の夏から、ずっと「人間にとっての自然とは何か」を考え続けていましたからね。その結果、この結論に至ったというわけなのです。「この確信は生涯変わらないだろう」と思いました。それで、何かの宗教を信仰するのではなく、一から自分で「運命は決まっていると同時に自由」という問題に取り組んでいこうと決めました。・・・

 

前野 その問題に向き合う方法はいろいろとあると思います。・・・あまたある選択肢のなかから古武術を選ばれたのはなぜですか?

 

甲野 もともと武術関係には興味があって、そういう文献を読んでいたということもあります。・・・

 ・・・たとえば、江戸時代以前の武術の本を読んでいると「夢想剣」などという言葉が出てきます。「我ならざる我」、つまり、自分ではない、もう1人の自分が剣を振るっている。いろいろな解釈がありますが、もしかしたら、ここに、この課題の本質があるかもしれない、なんていう気もしてくる。・・・