幸せのハードル

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 舗装された道路を歩くだけでありがたく感じるとは・・・こういう感覚になるんだと印象に残りました。

 

P373

 モーリタニアでは、年に一カ月間、ラマダンなる断食を行っている。・・・

 一度、ラマダン中とは知らずに野外調査に出向いたことがあるが、炎天下でもモーリタニア人は一口も水を飲まなかったので、熱中症にならないか心配していた。ただでさえ厳しい自然環境なのに、何ゆえ過酷な状況にその身を追い込むのか。答えを求めて自分も彼らに倣ってたった3日間ではあるが、ラマダンをしてみた。すると、断食中は確かにつらいが、そこから解放されたとき、水を自由に飲めることがこんなにも幸せなことだったのかと思い知らされた。明らかに幸せのハードルが下がっており、ほんの些細なことにでも幸せを感じる体質になっていた。おかげで日常生活には幸せがたくさん詰まっていることに気づき、日々の暮らしが楽に感じられた。

 ラマダンとは、物や人に頼らずとも幸せを感じるために編み出された、知恵の結晶なのではなかろうか。

 モーリタニア滞在中の3年間、友達とは遊べない、彼女がいない(もともと)、日本食は手に入らない、自由に酒を飲むことができないなど、ないないづくしのオンパレードだった。人間として生命を維持する分には困らないが、生きる上で大切な「モノ」を欠いた生活を送っていた。まさに我が人生のラマダンだったと言える。

 失ったものは限りなく大きいが、得たものもまた大きい。日本に一時帰国中、焼き肉チェーン店の食べ放題の安物のカルビを頬張ったとき、呑み込むのをためらうほど美味く感じた。コンビニに入ると、商品の多さに戸惑い、おにぎり一つ手に取ることさえ贅沢すぎて、罪悪感を覚えるようになった。幸せのハードルが下がっただけで、こんなにもありがたみを感じるものなのかと、自分の中に起こった変化に驚いた。普段は悪路を歩いているため、日本で舗装された道路を歩くだけでありがたみを感じる始末だ。ありがたみを漢字で書くと「有難味」になる。困難があったからこそ、余計にありがたみを感じられるようになったのだろう。

 日本に帰国し、半年も経つとせっかくの感性は失われていった。人は、際限なく幸せを追い求める動物で、どうやら「当たり前の生活」に不満を感じ、より質の高いモノでなければ満足しなくなるようだ。ありがたやと拝んで食べていたコンビニ飯に不満を覚えるようになったら、快適な日常生活を取り戻すために、なんちゃってラマダンを決行する。たったこれだけで、お金をかけずに幸せのグレードアップができる。