世界は人類のわからないことだらけ

怪獣記 (講談社文庫)

 ジャナワールについての本を出した教授を訪ねたときのお話です。

 

P59

「写真や映像があれば存在する。なければ存在しない―そういう考え方は間違いだ。だって、昔は写真もビデオもなかったじゃないか。なのに、たくさんのものが存在した。ちがうかね?」と、大げさに手を広げ、ユーモラスに顔を傾けた。

 教授は自著の目撃者一覧ページを広げながらこんなことも言う。

「わりと最近まで、ラマダン(断食)月の始まりと終わりは二人以上、証人がいればよかったんだ」

 観察しやすい場所から三日月が初めて昇るのを見た人が複数おり、彼らがその時代のイスラム法学者に報告して、決定されたという。

「その証人が信頼できる人物なら、イスラムの重要な習慣でも二名で十分だったんだよ。ましてや、ジャナワールの目撃者はここに載せただけでも四十八人もいる。載せなかった人も合わせれば、何百人にもなる。それで十分すぎるだろう」

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「教授はほんとうはトルコでたいへん有名な人物なんだ」とチェリキ青年は先ほどとはうって変わり、敬意のこもった口調で言う。

「ジャナワールで?それとも宗教的な意味で?」と訊くと、ジャナ否定論者の彼は苦笑したが、「教授は週刊のウェブマガジンで記事を書いていて、それは五十万人の人が読んでいるんだ」という。

「どんなことを書いているの?」と訊くと、教授自ら、「待ってました」とばかりに、自分の記事をプリントアウトして見せてくれた。トルコ語もあれば、英語のものもある。

 内容は「世界の破滅」から「オゾン層の破壊」「家族のあり方」まで多岐にわたっている。直接宗教に関わる話ではなく、一般人向けの倫理的啓蒙エッセイのようだ。

 私は英語で書かれた「世界の破滅」をざっと読んだが、これがおもしろい。

 それによれば、私たちが吸っている空気は大部分が窒素である。窒素はひじょうに緩慢なスピードで水と化学変化を起こし、猛毒の窒素化合物になる。もしこの化学変化がもっと早いスピードで進むようになれば、空には窒素が、海には水が満ちているのだから、われわれ生物はあっという間に死滅してしまう。世界の破滅だ。窒素と水の化学変化が緩慢だからこそ私たちはかろうじて生きている。人間は万物の霊長だなどと思っている人もいるが、実際にはこんな微妙なバランスのなかでなんとか生きているのである……。

 そんな内容だった。

 ひじょうにおもしろい。まず一般人に科学の知識を教える。そしてこの世界がいかに人間の力の及ばない仕組みで成り立っているのか―つまり人間は何もかもわかっているわけではないし、人間が万能なわけでもないと科学的に教えている。

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 ジャナワール研究もその流れで考えれば腑に落ちる。

 教授は言う。

「この世界で人間が知っていることなどごく一部にすぎないのだ。自分たちこそ万物の霊長だと思い込んでいる人間が環境を破壊し、世界を壊そうとしている。実際にはこの世の中、人類にはわからないことだらけなのだ。ジャナワールみたいなものもいるかもしれない。それをきちんと認識しなければならない」

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 先生は私たちにトルコ語の原本を一冊くれた。

「これは数少ない初版本で貴重だが、あんたがたも貴重だ。だから、一冊進呈しよう」と、大げさに言い、にっこりと人のいい笑顔を浮かべた。