押しつけず、突き詰めず

新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎文庫)

 このあたりも、真っ当な考えだなあと思いながら読みました。

 

P149

 大学を辞めて、俺は芸人の世界に飛び込んだ。それは、俺にとっては、群れから飛び出すということで、自殺するにも等しい決断だった。

 それまでの俺は、いろいろありはしたけれど、結局のところは母親のいうことに従って、自分はこの社会という群れの中で生きていくものだとばかり思っていた。

 道徳の話に引き寄せていえば、それまでの俺は母親の道徳観の中で生きていた。

 ・・・

 自殺するにも等しいと書いたけれど、ほんとうにあのときはそれくらいの覚悟が必要だった。浅草でのたれ死にしてもいいと、本気で思っていた。

 芸人ならのたれ死にしても格好いいやなんてうそぶいていたけれど、内心はそんな格好いいものではなかった。ただ、今でも忘れられないのは、そうすると心に決めたとき、見上げた空がほんとうに高くて広かったってことだ。ああ俺は、こんなに自由だったんだなあって思った。

 ・・・

 ・・・群れから飛び出したおかげで、群れの中にいるよりはいろんなことが見えるようになった。そんなに遠くまで飛び出したわけじゃない。群れのちょっとだけ上、全体の動きが群れの中にいる奴よりもちょっとだけよく見えるという位置だ。芸人には、それがぴったりのポジションだ。

 あんまり離れてしまうと、俺が何をいっているか、群れの中の住人にはよく理解できなくなる。芸術家くらいなら、それくらいの位置取りがいいかもしれない。ただ、あんまり離れすぎると、飯を喰うのが大変になるというところはよく似ている。だから俺は群れのほんの少し上……か、横か下か知らないが、ちょっとだけ離れたところをつかず離れずで泳いでいる。

 

P154

 結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。

 どんな道徳を身につけるかは、人によって違うだろうけれど。

 たとえば、俺は弟子にも最低限のことしかいわない。理由は同じだ。

 最低限というのは、あいさつと礼儀だ。・・・

 ・・・必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。

 冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない。

 不思議なもので、成功する芸人は例外なく、あいさつをきちんとするし、それなりの礼儀もわきまえているものだ。人当たりもいいし、ADに横柄な態度をとることもない。

 ・・・

 芸人に限らず、どの世界でも成功する人間は、だいたいそういうもんだろう。

 

P164

 難しい交渉事をする場合、どちらが正しいかよりも重要なことがある。

 相手のいうことにも理があると気づくこと、自分が間違っている可能性を検討することだ。

 昔から「盗人にも三分の理」という。どんな悪党のいうことにも、多少の理屈はあるということだ。・・・

 だから江戸時代には、喧嘩両成敗だったわけだ。

 人間同士の喧嘩なら、そんなことは誰でもわかっている。

 ところが、国と国の争いだとそうはいかない。

 ・・・

 自分たちの道徳を、相手に押しつけようとするから戦争になる。

 日本の道徳には宗教の裏付けがないから弱いんだって前に書いたけれど、そう考えると、それは日本の強みでもある。

 キリストの誕生日を祝って一週間もしないうちに、神社に初詣に行って手を合わせる。結婚式は教会なのに、葬式は坊さんに頼んでもなんの矛盾も感じない。

 日本人はなんでも曖昧にして、はっきり白黒をつけない。ノーといわない。

 そういう日本人の国民性は、どちらかというとネガティブな評価を受けていたけれど、今みたいな時代には、それが案外、合理的な態度なんじゃないか。

 ・・・

 考えがどんどん変わる。だから、日本人は思想を突き詰めることがない。

 だけど、突き詰める必要なんてないんじゃないか、本来は。

 自然がなんとか生かしてくれるのだ。

 周囲に感謝していれば、なんとか生きていける。

 ・・・

 自分たちの思想や哲学を、他人に押しつけず、外からいろいろな新しい文化が入ってくれば、それに憧れて、すぐに真似して、クリスマスには教会に行って敬虔な気持ちになり、正月は神社に行って清々しい気持ちになり、葬式は仏教で無常を思う。日本人はそうやって宗教を混合して生きてきたわけだけれど、それで何かバチが当たったとか、不都合が起きたって話は聞かない。いろんな行事が増えて、楽しいだけのことだ。

 あんまり入ってないのはイスラムだから、ラマダンもついでに真似したらどうだろう。断食して、世界の食糧危機について考えるのも悪くない。

 それでいいんじゃないか。

 いや、それがいいんじゃないの。

 この世の中に、100パーセント正しい思想や宗教なんてあるわけがないんだから。