「よく見る人」と「よく聴く人」

「よく見る人」と「よく聴く人」 共生のためのコミュニケーション手法 (岩波ジュニア新書 975)

 最後の方に、「『障害とは何なのか。この本を読んで、よくわからなくなった』。そんな読者からの感想が寄せられることを期待しています。」とありました。

 興味深い内容で、読んでよかったです。

 

Pⅵ

 ・・・本書の主題は障害理解ではありません。本文に入る前に、この本は広い意味で人間のコミュニケーションについて考察するのが狙いであることを明言しておきます。親しい友人、家族も究極的には他人です。人はそれぞれ違っていて、真にわかり合うことはできません。でも、わかり合えないからこそ、どうにかしてわかり合おうとする。そこに多種多様な「工夫」が生まれるのです。

 僕や相良さんは健常者(多数派)との違いが大きいため、人一倍「工夫」を積み重ねてきた自負があります。そして、僕たちの「工夫」は、きっと万人にとって「よりよく生きる」ヒントになるはずです。僕たちが期待するのは「目が見えない/耳が聞こえないのに、頑張っているなあ、すごいなあ」という〝感心〟ではありません。周囲との違いの自覚から出発するコミュニケーションのしたたかさ、しなやかさに〝関心〟を持っていただきたいのです。

 

P42

 今、もしも「普通」とは何ですかと尋ねられたら、僕は明確に答えることができません。「普通」の意味を問い直すきっかけを与えてくれたのが盲学校での生活です。小学校時代、同級生たちと同じように行動できないことに僕はプレッシャー、違和感を抱いていました。「目が見えにくい自分は普通ではない」という思いが、ある種の劣等感を惹起したのは確かでしょう。

 しかし、盲学校では目が見えないこと、点字を用いることが「普通」なのです。どこにいるかによって、どんな集団に属するのかによって、「普通」の意味は変わってくる。そもそも、「普通」なんて存在しないんだ。僕が異文化を調査対象とする文化人類学の研究者となった遠因は、おそらく盲学校で経験したカルチャーショックにあるのではないかと思います。マイノリティ(特殊)の立場から、マジョリティ(普通)にインパクトを与える。こんな僕のライフワークの出発点は盲学校にあるといえるでしょう。

 

P66

 イギリスでの4年契約の仕事が終わりに近づき、契約後のことを考え始めていると、「Ph.D.取得を目指しながら、あと2年仕事の契約を延長してはどうか?」とゼシャン先生から提案されました。それは、素晴らしい提案だ、と嬉しくなりましたが、同時に、もう一つ迷うべき進路が出てきていました。それは、国立民族学博物館(民博)から、将来、民博でも手話言語学研究を行いたいので、担当できないか?とお誘いを受けたことでした。

 ・・・一人では結論が出せずにいると、アメリカ人の研究者からカウンセリングを勧められて、人生で初めてカウンセリングを受けました。

 カウンセラーに自分の心の内を話していくうちに、自分が求めているのは、「同じところで生活を続けるのではなく、新しい環境に飛び込んで、何もないところから新しいものを築き上げていくことだ」と気づきました。

 ・・・

 それまでの人生でこれほど迷ったことはありませんでしたが、一度決めてしまえば、そこに向かって進んでいくだけ。気持ちが楽になりますね。人生は、選択の繰り返しですが、「選択」できるということ自体、幸せなことですね。

 

P164

相良 駅で障害者割引の手続きをする時、インターフォンのボタンを押すと、駅員の顔も見えず、スピーカーから音声だけで案内されることがあります。聞こえないので、結局、窓口の人を呼ぶのですが、それも窓越しの話は音声だけでよく理解できず、最終的に筆談になって、すごく時間がかかってしまった経験があります。機械で効率よく対応しようとしたシステムなのでしょうけれど、ろう、難聴者にとっては、利用しにくい対応になっています。

広瀬 おもしろいですね。そこも相良さんと正反対で、僕は音声で返事が返ってくると、安心する(笑)。逆に困るのは、障害者割引を使おうとする際、「そこにカメラがあるから障害者手帳を提示してください」って言われることがあるけれども、「そこ」がどこなのかわからない。障害者割引なのに、聞こえない、見えない人が使いにくいって、なんとも「不合理」ですね。

 

P177

広瀬 世間では「障害者」って十把一絡げでとらえられているけれど、相良さんは見ることを大切にするし、僕は聞くことやさわることを大切にします。必要とするサービス、ニーズも違うし、生活様式もまったく異なります。「障害」とは、健常者(マジョリティ)が自分たちとは少し違う身体の持ち主を一括りにして論じるための単なるレッテルです。一口に「障害」といっても、いろんなタイプの人間がいる。「障害」という言葉で個々の人間を評価することはできない。こんな僕たちの素直な思いを多くの人、とくに若い世代に知ってもらうために、本書を企画しました。「障害とは何なのか。この本を読んで、よくわからなくなった」。そんな読者からの感想が寄せられることを期待しています。

「障害」という語で多様なマイノリティを規定するのは無意味だし、やめてほしい。この思いは、本書を締め括ろうとする今も変わりません。ただ、これまで相良さんの各章の原稿を読んできて、強く感じることがあります。「違うんだけど、よくわかる」。こういったシンパシーはどこからくるのでしょうか。本日の対談でも、「盲」と「ろう」の相違を再認識すると同時に、似ている部分、人間として共感できる経験がたくさんありましたね。

 僕は「触覚センサー」という言葉を使っていますが、マジョリティとは違う感覚(いわゆる五感)の使い方をして、世界に触れて情報を得ているのが障害者です。マジョリティは目に頼って情報を得ているけれども、僕は目を使わず、他のセンサーを駆使しています。相良さんも、マジョリティとは違う方法で情報を受発信している。感覚の用い方という点で、僕は相良さんにシンパシーを感じるのだと思います。

 この本のテーマは福祉ではなく、人間のコミュニケーションです。僕も相良さんもコミュニケーションをとても大事にしています。他者とのつながりがなければ、人間は生きていけません。僕も相良さんも見えない、聞こえないという特性が一つのきっかけとなり、コミュニケーションの手段・手法を磨いてきました。語呂合わせで恐縮ですが、障害者は自らの「生涯」を豊かにするために、独自の「渉外」術を編み出し、鍛えています。内に籠らず外に出ることによって、僕も相良さんも人生を楽しんでいる。そんな二人の体験を通じて、人間のコミュニケーションのすばらしさ、可能性を読者に知ってもらいたいと願っています。