まともがゆれる

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」の中にこの本が引用されていて、ぜひ読みたいと思いました。期待通り、とても興味深い内容でした。

 

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 僕が主催する「スウィング」は京都・上賀茂で活動するNPO法人である。以前に勤めていた福祉施設で、僕自身が苦しみ続けた「こうあるべきまともな姿」から大幅にはみ出した「障害者」たちと出会い、彼らとなら何か新しいことができるかもしれないと、2006年、ありあまる熱意半分、やけくそ半分で設立した結果、13年目を迎えた今も地道な活動を続けている。法人の理念は「Enjoy! Open!! Swing!!!」。閉塞感漂うキナ臭い世の中を、それでも楽しもうとする姿勢や気概を持つこと。固定化し、硬直しがちな組織や人との関係性、そして弱くてちっぽけな自分を開くこと。諸行無常の世に身を委ね、柔らかにしなやかに軸をぶらさず揺れ続け、変わり続けること。この3つをシンプルな言葉で表したつもりだ。

 障害者総合支援法という法律に則った福祉施設でもあるスウィングには、毎日15~20名の障害者がやって来て、絵を描いたり、詩を書いたり、戦隊ヒーローに扮して清掃活動を行ったりと、一般的なそれとはずいぶん違う様々な仕事を行っている。障害者と一言で言えども知的障害、精神障害発達障害、身体障害、いくつかの障害を併せ持つ人などそれぞれ。また、障害者という言葉がイメージさせる生きづらさなんてまったく感じさせず、目の前の日々を楽しんでいるようにしか見えない人もいれば、社会が規定するまともからはじかれ、ひとりでは抱えきれないような生きづらさを味わってきた人もいるし、そもそもそうした社会的なあれこれを理解できない人もいる。一方、スウィングでは少数派である若干名の「健常者」たちは、(僕も含めて)むしろ心身健やかなふうには見えない場合が多く、人を便利に一括りにしてしまうラベルは、やっぱりただのラベルにすぎないことを僕たちはよく知っている。

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 社会を断罪してもしょうがないし、人ひとりが生きるということにセオリーや方法論なんてない。本書が、固定化された「まとも」を見つめ直し揺らしたりずらしたり、このろくでもない社会に傷付き戸惑う心優しき人たちの生きづらさを緩め、一息つきながら生きてゆくための少しのヒントになればいいなと願っている。

 

P16

 先日、遠く長崎から見学者がやって来て、スウィングの風景にえらく感動して帰ってくれた。雰囲気が自由であること、「ヘンタイ」が褒め言葉として当たり前に使われていること、そして何より「朝礼でたくさんの人が発言する様子」に目を輝かせてくれたことが嬉しかった。

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 朝礼(や終礼)では「本当にどうでもいいこと」を、本当に多くの人が発言する。昨日の晩ご飯のおかずとか、昨日のスウィングからの帰り方(毎日いっしょ!)とか、家に帰ってからこんなことがあったとか、週末にはこんな予定がある(その日が来るまで毎日のように同じ情報がプレゼンされる)とか。笑ってしまうくらい本当にどうでもいいことが飛び交うのだが、僕は本当にどうでもいいことを言い合えるこの自由な雰囲気が、とてつもなく大事だと考えている。

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 学校教育の場をはじめ、どうでもよくないことしか口に出しちゃいけないような空気の中で多くの時間を過ごしてきた人たちが、本当にどうでもいいことがセーフゾーンどころか、どストライクゾーンとなったこの空間でまさにその人自身の言葉を取り戻し、声を発するようになり、そうした積み重ねの上に、彼らの自由な仕事や表現が生み出されているように感じる(また、そうした雰囲気は言葉を持たぬ人にも伝わってゆくものだとも思う)。

 スウィングのモットーのひとつに「ギリギリアウトを狙う」がある。だから始業時間はまちまちだし、眠くなったら昼寝をすることが奨励されているし、特に理由もないのに休みを取る人には拍手が送られる。知らぬ間に僕たちの内面に巣くってしまった窮屈な許容範囲の、ちょっと外側に勇気を持って足を踏み入れ自己規制を解除し続けることで、かつてはアウトだったものが少しずつセーフに変わってゆき、「普通」や「まとも」や「当たり前」の領域が、言い換えれば「生きやすさ」の幅が広がってゆく。

 それは決して難しいことではなく、「自宅の電化製品の状況」という誰も知りたくない情報や、「忍者になりたい」という永遠に叶いそうもない夢を語ることがナイスとされる時間と空間の中で、日々更新され続けているのである。