面白かったので、2冊目も読みました。
こちらは哲学の伊勢田哲治さん。
P111
ものを考えるとき、何らかの概念を当てはめ、二分法的に思考すること自体はとても大事です。そもそもグレーゾーンの存在がクローズアップされるのも、まず二分法的な概念を当てはめるからです。
しかし、その概念に当てはまるのか、当てはまらないのかで明確に分けようとすると、そこで話が終わってしまうのです。非常に豊かな可能性を秘めているグレーゾーンが、まったく見えなくなってしまいます。
これは科学だろうか、科学のようで科学じゃないものだろうか?
椅子だろうか、椅子じゃないものだろうか?
それらの問いにうまく答えられないような対象に出会ったとき、簡単に答えを出してしまわず、
「見方を変えれば、もっと違うものが見えてこないだろうか?」
「そうじゃないように見えて、可能性を秘めているんじゃないか?」
と考えてみれば、新たに見えてくる世界がきっとあります。
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越前屋 ・・・ところで、「哲学者=変人」というイメージもありますが、伊勢田先生ご自身は「自分は変人だと思われている」という自覚のようなものはあるんですか?
伊勢田 面と向かって「変人ですね」と言われることはあんまりないですけど、「他の人から見てどう思われるのか」を気にしすぎると、つまらない人生になるなとは思います。
越前屋 それって裏返すと、一般の人たちは周りのことばかり気にして、肝心なことは何も疑っていないっていうことでしょうか?
伊勢田 哲学者は、「そこを疑ったらみんなと話が合わなくなる」ようなことについて、疑いを持つ機会が多いんでしょうね。「自分の認識と世間の認識はどうしてずれているんだろう」ということ自体もおもしろいですし、興味の対象になるんです。
こちらは宇宙物理学の嶺重慎さん。
P210
さて、ここまでブラックホールからスタートして、宇宙探査や手話の話など、あれこれお話ししてきました。
脈絡がないように思われたかもしれません。でも、すべてに共通する要素があります。それは「常識を疑う」こと、すなわち「自分の思考がとらわれているものに気づく」こと、そのために「立場を変えて考えてみる」ことです。
私たちは知らず知らずのうちに、「地上の常識」にとらわれながら生活をしています。新しい発想に対して、「こんなのできない」と頭ごなしに決めつけています。
しかし、ブラックホールという変なものについて考え、太陽系以外の惑星系の存在を知り、障害者と一緒に学ぶことによって、自分がいかに常識にとらわれていたか、実はわかっていなかったことがあったという事実に気づきます。
自分を客観的に見て、「ああ、自分はこういう考え方にとらわれていたのか」と自覚する。その経験を通じて、人は自分が身につけていた常識から離れることができます。結果として、世界が広がり、いろいろなことが考えられるようになります。新しい学問を生むことができるのは、そんなふうに常識を脱した人なのです。
そして、私は真面目な人こそが常識を脱した変人になれると考えています。
真面目な人=変人というと、意外に思われるでしょうか。でも私は、真面目な人ほど変人になると確信しています。
真面目な人は「ちゃんと自分の頭で考えている人」であり、自分の頭で考えている人は、確実に変人になるのです。
なぜなら、世の中の大多数の人は「世間体」や「常識」に流されて生きています。周りに流されるまま、「みんながやってるから」という理由で周りに合わせた言動をとっていくうちに、「常人」になっていきます。
京大の山極寿一総長は、変人ではない人のことを常人と言っています。
つまり、周りに流されずに、真面目に自分の頭で一つひとつ考えて行動していけば、必ず変人になるようにできているのです。
こちらは医療工学の富田直秀さん。
P229
商品やサービスを買ってから、冷静に考えてみると「あれっ?オレって、本当にこれが欲しかったんだっけ?」と思うようなことが増えていないでしょうか。
今は、電子機器ばかりではなく、ほぼすべての商品やサービスが、新しい欲望を生むために開発されています。
この状況を、ジャン・ボードリヤールというフランスの哲学者は、「われわれは、機能的人間になり、交換価値の法則によって支配されている」と言っています。交換価値とは、ある商品やサービスが、別の商品やサービスと交換するときの比率のことです。
別の言葉でいうと、どれだけ「できる」のかという機能の量を決めて、それで世の中のいろいろな価値を評価することが求められるようになっているということです。私は、この状況と「他人事になる」ことが関係していると考えています。
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小児科病棟ボランティアでの経験です。長期に入院している子どもたちに、若い学生ボランティアが初めて会うと、ときとして髪の毛を引っ張られたり、服に落書きをされたり、ひどい悪口を言われたり、およそ彼らの日常からは考えられない「悪さ」をされることがありました。
またクリスマスなどの病棟行事で、医師たちがふだんは見せない「おかしな」「ふざけた」「悪い」姿を見せると、子どもたちはとても喜びました。
彼らは必死で「悪さ」を欲していたのではないかな、と思います。医療スタッフや親たちの「わけのわかった理屈」の中で「よい子」を演じ続けなければならない子どもたちの中では、わけのわからないエネルギーが限界近くまで抑えられていたのだと思います。
現代の世の中も、また「悪さ」を求めているのだ、と私は感じます。その「悪さ」は理屈や力で制御される対象ではないのだと思います。
このバカヤロウエネルギーは、小さなつぶやきが大きな力となって広がりやすい現代の仕組みの中では戦争へのエネルギーにもなりうる、と私は危機感を持っています。
バカヤロウエネルギーは、私の中にもあります。どうしたらいいんだろう、このエネルギーが「殺っちまえ」にならずに、自分たちとは違う世界観を尊重して、それぞれの主体性を持続させる力に変えることはできないだろうか……そう、真剣に考えました。
そこでたどり着いた結論が、「SUKIる」だったのです。
この本で書いた内容はとてもわかりにくかったと思います。けれども、結論は単純です。もう一度繰り返しますと……。
みなさんそれぞれの「SUKIる」を演じよう。
他者や敵のおかげで自分があるのだと、そう演じて、演じているうちにホンモノの自分が見つかるかもしれません。
P273
越前屋 ・・・せっかくですから、「京大変人講座」を通じて、目指そうとする変人像を標語にしてみませんか?たとえば「変人たれ!」を英語で捉えると……。
伊勢田 ここで言う〝変人〟は、奇をてらったことをするという趣旨ではなく、「Be Yourself」みたいなことでしょうか。
越前屋 おお!「あなた自身になりなさい」か。いいなあ、「Be Yourself」。きましたね!