認知症のお母さんの姿から考えたこと・・・確かにそうだなぁと思いつつ読みました。そして大家族でなく一人分の家事ならば、手でやるのもいいなと・・・。
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人は誰でも老いていく。これまでできていたことが、一つ一つできなくなっていく―。
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というわけで当然、誰もがそのことに怯えているわけです。
でも私の見る限り、「コレ」といった解決策はまだ現れていない。
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ヒントをくれたのは、愛媛県西条市の職員として認知症の問題に取り組んでいた近藤誠さんという方だった。
近藤さんのことは、母の認知症に向き合う日々の中で知った。終わりなく進行し続ける症状の悪化に、永遠に「ガーン」とショックを受け続けるしかないという圧倒的無力感の中で、本屋でふらふらと手に取った『家族よ、ボケと闘うな!』(ブックマン社)という本の著者の一人が近藤さんだった。
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近藤さんは、認知症だった父親を看取った経験と後悔を胸に、患者本人を真ん中に置いた支援を徹底して考えている人だった。巷によくある「こうすれば良くなる」系の安易な希望は語らない。「年をとれば体も頭も衰えるのは当たり前」と突き放す。その上で、なぜ認知症がこれほど苦しい病になっているのかの根本に切り込んでいく。
その意外な切り込みに、私は目を見張った。
近藤さんは、認知症を恐ろしい病にしてしまっているのは、我々の生き方そのものに原因があるんじゃないかというのだ。
ドキドキしながらさらに先を読む。そして、近藤さんが実例として紹介していた「ナン・スタディ」というアメリカの研究のことを知った。
ナンは修道女のこと。つまりナン・スタディとは、修道女を対象にした研究である。集団生活を送っている600人以上の修道女たちを対象に、一体どんな要因が脳の病気を引き起こすのか、脳と老化の関わりについてアメリカのスノウドン博士が調査・研究したものだ。
私が目を見張ったのは、修道院には100歳を超えても頭が冴えわたっている修道女がたくさんいて、その亡くなった後の脳を解剖したところ、脳にはしっかりアルツハイマーの病変が出現しているのに、現実には認知症を発症しなかったケースがあることがわかったというくだりである。
なぜなのか。まだはっきりとしたことはわからない。しかし多くの患者や家族と関わって来た近藤さんは、このように考えている。
年齢を重ねていけば、体のそこかしこに不具合が出てくるのは当然のこと。脳も同じことである。でも集団の中で、自分のできることはしっかりと行いながら、環境の変化の少ない暮らしを何十年も続けていれば、たとえ認知症になっても生活に支障をきたすことは少ないのではないか?
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なるほど、と思った。そして母のことを思った。
母は、修道女たちとは真逆の環境にいるのではないだろうか。
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・・・現代の我々の暮らしはどうか。便利を追求した結果、それまで人間がやってきたことをどんどん機械に任せるようになった。手で掃除しなくなったし、歩くこともしなくなったし、漢字も書かなくなった。検索ばかりして「思い出す」こともしなくなった。・・・
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つまりはですね、我らは体だけじゃなくて、もうこれからは頭も使わなくていいんですどーぞどーぞラクにしてくださいねっていうエンドレスな呼びかけの中を生きているのだ。・・・
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そういう目で世間を見てみると、全てのことがこれまでとはガラリと違って見えてくるのだった。
「便利!」「便利!」とまくしたてるコマーシャルが、まるで私を陥れる穴のように見えてくる。「ワンランク上の暮らし」を提案する雑誌も何の魅力もなくなってしまった。ワンランク上なんて目指している場合じゃない。これから確実に老いていく私に切実に必要なのは、「変化の少ない暮らし」なのである。
そう、私が目指すべきは「修道女のような暮らし」なのだ。
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で、いろいろあって、実際にそのような暮らしを始めたわけです。
そして何が起きたかは、これまでに書いてきたとおりである。
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そう、ついに私は自ら「修道女化」することに完全に成功したのである。
で、確かにこんな単純で簡単で楽しい生活ならば、かなり年をとってもいつまでもできそうな気がするのだ。
意味不明のボタンがたくさんついたややこしい道具など一切使わず、来る日も来る日も雑巾やホウキや小さなコンロやタライという原始的な道具を使い、日々同じことをチャチャッとやるだけ。これならば多少ボケがきたとて身についた単純な習慣はそう簡単に失われるコトもないはずで、それなりに長いこと自立して暮らせるのではないか。
それに、体を動かし、五感を働かせていることそのものが、自分を生き生きとよみがえらせているのがわかる。そうなのだ。機械に頼らず手でやる家事は思いのほか楽しかった。雑巾で床を拭いたら真っ黒になり、それを冷たい水で石鹸の匂いに包まれながらじゃぶじゃぶ洗濯する。たちまち水が真っ黒になって、一方の雑巾が真っ白に……というのは、それだけでキャッと心が浮き立つような清々しい娯楽であった。まるで日々幼い子供の泥んこ遊びをしているみたいだ。