すごい論語

すごい論語

 「論語」って、なにやらすごく真面目なことが書いてあるような印象を持っていたのですが、この本で紹介される「論語」は全然違って、こんなに面白い内容だったのか?!と驚きました。

 

P6

 もうひとつ気づいたのは、現代に流布している『論語』の本文の中には、孔子の時代にはまだ存在していなかった文字が多く使われているということです。

 ・・・

 この、孔子の時代にはなかった『論語』の文字を、孔子の時代以前の文字に戻して読んでみると、『論語』の内容が全然違うものになるのです。

 たとえば『論語』の中でもっとも有名な言葉である「四十にして惑わず」(為政篇四)の「不惑」。この語でいえば「惑」という字が孔子の時代にはありませんでした。「惑」という漢字がないということは、少なくとも孔子は「惑わず(不惑)」とは言わなかったということになります。

 これってびっくりでしょ。「不惑」の中の「惑」がなかったら、文全体が全然違う意味になってしまいます。じゃあ、孔子は何と言ったのか。それを考えるときには(単純化していうと)、

(1)字形が似ていて(偏などを取ってみる)

(2)しかも古代音が類似しているもの

を探します。

 と、見つかるのが「惑」の下の「心」を取った「或」の字です。・・・

 現代では「或いは」という意味で使われている「或」ですが、この「或」に「土」をつけると、地域の「域」になります。また、「口」で囲むと「國(国)」になる。ともに「区切られた区域」を表します。

 ・・・

 すなわち「或」とは、境界線を引くことによって、ある場所を区切ることをいいます。分けること、限定することです。となると「不惑=不或」とは、「自分を限定してはいけない」という意味になります。

 人は四十歳くらいになると「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか。

不惑」とは、四十歳くらいは「そういう心の状態になるので気をつけなさい」「四十歳こそ自分の可能性を広げる年齢だ」という意味になるのです。

 ね、現代、私たちがイメージする「四十にして惑わず」の「不惑」とはずいぶん違う意味になるでしょう。

 じつは、能を大成した世阿弥も同じようなことをいっています。

「初心忘るべからず」です。

 初心の「初」は「衣」偏に「刀」。着物を作るためには布施に刀を入れなければならない。それを表すのがこの漢字です。きれいな布地にわざわざハサミを入れるのは、ちょっと怖い。でも、それをしなけば着物はできない。だから勇気をもってバッサリいく。そのような心で、古い自分をバッサリ裁ち切り、新たな自分を見つけていく、それが「初心」なのです。

 

P10

 ある人がある問いをもって『論語』と向き合うと、『論語』はふさわしい答えを返してくれます。

 音楽家が問いを投げ込めば音楽の答えが、スポーツ選手が問いを投げ込めばスポーツの答えが、政治家が問いを投げ込めば政治の答えが、『論語』のほうから返ってきます。

 なぜ『論語』が、それほど多彩な引き出しを備えているのか。そのひとつの理由は『論語』の主人公たる孔子が、類まれな多芸多才な人だったからです。本人は、「自分は若いころ、賤しかったから多芸なんだ」(子罕篇六)と言っていますが、一般的には本職と見なされている政治や思想のほかにも、詩をたしなみ、舞を舞い、音楽を奏で、さらには料理についてまでも深い造詣がありました。

 

P19

安田 『論語』を通読すると、孔子は音楽家としての側面が大きい、ということがわかります。自分で演奏もするし作曲もする、そして音楽収集家でもあるんです。

 ・・・

 ・・・『論語』における「音楽」の重要性を示すのが、次の一文です。

 ・・・

 子の曰わく、詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。

 ここで「樂(楽)」とあるのが「音楽」のことです。正確には、いわゆる音楽とはちがうのですが、それはあとでお話しすることにして、この章句は、孔子の学団に入った人が学ぶべき順番を語っています。

 まず「詩」を学び、次に「禮(礼)」を学び、最後に「樂」を学ぶ。それによって人格が完成する。すなわち「成る」のだと、孔子は言います。それぐらい、「樂」は孔子にとってもっとも重要なものなんです。

 ・・・

 この「成る」という言葉は、完成の「成」であり、生成の「成」なんですが、もうひとつこの「成」には「誠」の意味もあります。孔子の時代はまだ「誠」という文字がなかったから、「誠」の意味でも「成」の字を使っています。

 で、この「誠」というのも、僕たちが考える「まこと」とは全然違っていて、『中庸』(四書のひとつ)の後半部分で詳しく解説されていますが、そのことを話していくと何時間もかかってしまうので、新渡戸稲造が『武士道』(岩波文庫)の中で「誠」を説明しているものを紹介しますね。これはよくまとまっています。

 

 孔子は『中庸』において誠を崇び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。曰く、「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と。彼はさらに誠の博厚にして悠久たる性質、動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力について、滔々と述べている。

 

 ね、すごいでしょ。「誠」、すなわち「成」には「超自然力」があり、それは「神」と同視されるような存在で、しかも無為の力で変化を生み出し、目的を達成しちゃうんです。「誠(成)」は、その超自然力によって人を元気にさせたり、死に至らしめたり、雨を降らせたり、そういう力も備えています。「樂」も、おそらくその性質をもっていた。だから「樂に成(誠)る」という表現になるんです。

いとう それはつまり、「樂」には呪術としての力があった、ということなんでしょうか?天気を変えたり、人を死に至らしめたりっていうのはとんでもない力ですよね。

安田 はい。そして、それは同時に、人を元気にする力も備えていました。

 ・・・

いとう ここまでの話をざっと整理すると、「樂」はいまの音楽とはだいぶ意味合いが違っていて、「樂」というのは、無意識と意識の世界があるうちの、無意識の強大な力を汲み出すためのもの、といえるんでしょうか。大雑把すぎるまとめかもしれませんが。

安田 まさにそのとおりです。いってみれば、無意識の強大な力を抑えようとしたのが「禮」で、それを解放しようとしたのが「樂」です。いまでも音楽は程度の差こそあれ、無意識に働きかけていますよね。

いとう たしかに現代でもそうですね。無意識を完全に解放したら人はおかしくなってしまいますけど、ものすごい力をもっているのは間違いない。だから能でも狂女ものとかがあるわけじゃないですか。狂った者はコントロールを失ってしまいがちですけど、そのすごさはみんな知っているわけですよね。

安田 そうです。孔子も、本当は中庸の人が一番いいと言っていますが、そのバランスがとれている人はなかなかいません。それならば、まともすぎる人よりも「狂」のほうがいいと言っています。

いとう でも、孔子が「詩に興り、禮に立ち、樂に成る」と言ったように、無意識の力を習得して人格が完成するというのであれば、そこにはもうひとつ大きな志向性が必要になるんじゃないでしょうか。それがなければ、ただ狂って踊って楽しかったで終わるか、あるいは物事を破滅に向かわせるか、そうなってしまいます。そうだとすると、「樂」を操る術は相当深くて難しいものだと思います。

 ・・・

 それと、「樂に成る」の「成る」は本来の字としては「誠」なんだという説明が先ほどありましたが、「誠」が新渡戸稲造のいうように「超自然力」なのだとすると、「樂」だけじゃなくて「誠」も、現代の意味合いとはだいぶ違うということですよね。

安田 そうです。「誠」の本来の字義に近いものとしては、たとえば松尾芭蕉の「風雅の誠」があります。「誠」は「成る」ですから、対象と一体化することを指します。芭蕉は『三冊子』の中で、「松の事は松に習へ。竹の事は竹に習へ」という言葉を残しています。さらに、この「習へ」というのは「物に入る」ことだといっています。松に入り、松と一体化して松の句を詠むということなんです。

 孔子の「樂」の習得の仕方も、そのようであったということが『史記』の「孔子世家」に書かれています。・・・他の人なら、もう十分というところまで弾けるようになっても、孔子はやめようとしない。師匠である師襄子は「次に行っていいよ(以て益むべし)」と言うのですが、孔子は「その数を得ず」と言って、なかなか先に行こうとしないんです。この「その数を得ず」というのがどういうことなのかは、よくはわからないのですが、「曲全体の流れがわからない」というような意味でしょうか。

 で、やっと「その数」を得たのですが、それでも先に進もうとしない。師匠は先に進むように言うのですが、今度は「その志を得ざるなり」と孔子は言います。「志」というのは、この曲がどこに行こうとしているのか、という意味です。やっと、「その志」を得た孔子ですが、今度は「その人と爲りを得ざるなり」、すなわち「これを作った人(作曲家)がまだ見えない」と言います。

 が、しばらくすると孔子の顔つきも、その様子も変わってくる。そして「この曲を作ったのは周王朝を立ち上げた『文王』にちがいない」と言うと、それを聞いた師襄子も驚いて孔子に席を譲って、孔子を拝しながら「私も、自分の師匠からそう伝え聞いている」と言うんです。

いとう 参った。あなたのほうがすごい、ということになっちゃったわけですね。

安田 そう。しかも、これがただ頭でわかったのではない。孔子は、周の文王その人に変容してしまったわけです。ベートーヴェンを弾きながらベートーヴェンになっちゃうような、そして、これこそが「樂」の最大の効能のひとつで、伝説の王、周の文王になってしまうんです。