意識というAI

すごい論語

 「仁」の話から、意識とはAIなのでは?という話、「和」の話まで、とても興味深かったです。

 

P199

安田 ・・・人を好きになったり、人を嫌いになったり、憎むことができるのは、仁者だけだと孔子は言います。

 

 子曰、惟仁者能好人、能惡人、(里仁篇三)

 子の曰わく、惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。

 

ドミニク はあ、これはすごい重要そうですね。ここでいう「できる」とは、好き嫌いをする本来的な「資格」をもっている、という解釈ができそうです。

安田 そうですね。そして、それとまったく逆に読めるようなことも言ってるんです。「仁」に志したら、憎むという状況はなくなる、と。これ、違う読みもありますが。

 

 子曰、苟志於仁矣、無惡也、(里仁篇四)

 子の曰わく、苟に仁に志せば、悪しきこと無し。

 

ドミニク うん。どっちだ。

安田 ね。『論語』の中の「仁」には、こんなふうに「どっちだ」というのが多いんです。だから「仁」とは何なのかがさらにわからなくなる。この、わからないことを、わからないままにキープしておくことが「仁」を考える上で大切です。

 ・・・

 また、孔子は「仁」を「過ち」のほうからも考えています。ちなみに論語の中の過ちというのは、「間違い」ではなくて「過剰」をいいます。

 人の過ち(過剰)というものはその共同体ごとに違うと孔子は言います。ある共同体では問題のないことも、違う共同体では過ち(過剰)と認識されることがあります。その過ちを観察すれば「仁」を知ることができると孔子は言います。

 

 子曰、人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣、(里仁篇七)

 子の曰わく、人の過つや、各ゝ其の党に於いてす。過ちを観て斯に仁を知る。

 

ドミニク 何がその共同体で過剰と見なされるのかを観察できれば、「仁」を知ることができると。すごく相対的な見方をしているのが面白いですね。中国がさまざまな国に分裂していた春秋時代を生きた孔子ならえはのリアリズムでしょうか。

安田 まさにおっしゃるとおりですね。そして、「知者」と「仁者」を対比させている章句をもうひとつ読んでみたいと思うのですが、ここでは知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむとあります。「知者(水)は動き、仁者(山)は静かだ」とあるように、両者の違いは、動くことと、とどまるということですね。

 また、知者は楽しむけれども、仁者は「寿」であると書いてあります。「寿」は、長生きという意味ですが、それだと「楽しい」とは対比にならない。ここでは時間が長い、永遠性ではないかと思います。

 

 子曰、知者樂山、知者動、仁者靜、知者樂、仁者壽、(雍也篇二三)

 子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿し。

 

ドミニク なるほど、「寿」はロングナウなんですね。知者は儚いものを楽しみ、仁者は永続的なものを楽しむ。まるで、生物の個体と、その進化系統の関係のようにも思えてきます。

安田 はい。あるいは仁者は永続である、仁者は永遠である、と。これも「仁」を神と読みかえると、神は永遠である、になりますね。

 ・・・

 ・・・「仁」を神と読みかえるといろいろすっきりするのですが、むろん「仁」は神ではない。孔子の時代、「仁」という漢字はまだ存在しないんです。・・・

 ・・・

 ・・・おそらく孔子は「仁」ではなく、「人」と言っていたんじゃないかと思うのです。ただ、普通の「人」ではない。孔子は、まったく新しい人間というものをイメージして「仁」というふうに言っていたんじゃないかと思うのです。

ドミニク ああ、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』みたいなことですか?

安田 そう、ツァラトゥストラ、スーパーマンなんです。

ドミニク 人がアップデートされた超人のことなんですね。

安田 はい。ヴァージョン2.0の身体、ヒューマンボディ2.0なんです。

ドミニク それでいうと「仁」って人偏に「二」って書きますが、これは「人2.0」「ヒューマン2.0」って読めますね。

安田 そう、そう。ヒューマン2.0。ドミニクさん、面白いなぁ。

 ・・・

ドミニク 先ほど、「仁は欲すれば、ここにある」というところで「仁」を「神」に置きかえたときにちょっと思ったんですけど、「神」という漢字自体も人間の心とすごく密接に関係しているものですよね。

 ・・・

「神」という字を「心」に置きかえたら、心理的シンギュラリティ仮説というのがわかりやすくなるんじゃないかなと思って。

 どういうことかというと、心が発明されたというか、言語によって心というものが定着したというときに、もうひとつの見方として、意識と無意識というのが分離されるようになったというか、意識という概念が発明されたんですよね。意識が時間を固定することで、未来にプロジェクション(投影)をして、過去をルックバック(振り返る)できるようになった。

 これはウェルビーイングを共同研究している渡邊淳司さん(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)がいっている表現で、僕はすごく好きなんですけど、「もともと意識とは人間にとってのAI的存在なんじゃないか」、と。

 それはどういうAIかというと、無意識という名のビッグデータの渦を処理して、意味を抽出してくれるAIなんですね。

 ・・・

 だから僕たちは自由意志に基づいて行動しているように見えて、オートマチックに自動実行してる部分が多いんじゃないかと。

 普段は、人はすごく主体的にものを考えているように感じますけど、意識というAIが無意識から上ってくるデータを打ち返しているにすぎないかもしれない。・・・

 ・・・

 ベンジャミン・リベットという人が一九八〇年代に行った有名な実験で、人間に根源的な自由意志はあるのか?という問いに疑問符を突きつけたものがあります。

 被験者が腕を動かしてボタンを押すという行為の最中に、筋電位と脳波を測った。すると、ボタンを押そうと自覚的に意識した時点よりも三〇〇ミリ秒も早く、脳内の運動準備電位という変化が観測されたのです。

 ・・・

 リベットはこの結果から、意志とは拒否する力、Free Won’tをもつ、という面白い言い方をしています。

 

P224

安田 ・・・孔子の放浪は諸国にばらばらになった「樂」を完成させるために収集しに行ったんじゃないかと思うのです。「樂」というのは無意識に働きかける装置です。それこそ「政(力)」と「刑(法)」による統一というのは、意識の部分の統一でしょ。

ドミニク そうですね。それは「仁」から遠ざかるとされる「巧言令色」とか、「仮面をつけて演じる」という結果になっちゃうということですね。

安田 そうそう。そうすると人は抜け道を見つけ出そうとするし、恥もなくなると孔子は言う。法や力ではなく、「禮」や「樂」というものを中心とした、各人が個人個人としてばらばらでいながら、しかし統一されているという統一、それを模索していた。孔子はそれを「和」という言葉で表現します。

ドミニク ほぉ、これこそが和なんですね。

安田 はい。孔子は「和して同ぜず」と言っていますが、「和」は古くは「龢」と書かれます。

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 これはさまざまな音程の楽器を一緒に鳴らして、調和のある音を出すという意味の文字で、この逆が「同」。同じ音を鳴らすことをいいます。違う意見や違う考えの人が一緒に集まるのが「和」で、みんなが同じ意見を言うのが「同」です。

 君子は「和」するけれども「同」はしないと言っています。聖徳太子が十七条の憲法で「和を以て貴しと為す」と言ったときの「和」も「龢」の字を使っています。