見えない世界とつながって

すごい論語

 神や死者と共に生きている景色が、漢字を通じて見えてくるのが面白かったです。

 

P56

安田 ちょっと本題から離れてもいいですか?笑いの話で思いついたことがありまして……。

いとう 思い出しちゃった。

安田 しかも『論語』じゃなくて『古事記』の話なんですが、天照大神が天岩戸に隠れて世界が真っ暗になったときに、天照大神を岩戸の中から出そうとして、天宇受売命が神々の前で舞をしますね。それを見た八百万の神々は笑うんです。それを『古事記』の原文では「高天原動而八百萬神共咲」と書かれていて、「笑う」に「咲」の漢字を当てています。

 じつは「咲」の字は「わらう」が原義で、「花が咲く」という使い方はむしろ新しいのですが、それでもやはりここでこの字を使うのは面白いと思うのです。「咲く」っていうのは日本古来のやまとことばでは「先っぽ」の「さき」とも同じですから、何かがこう「先っぽに開く」ことが「咲く」であり、つぼみを「裂く」ことが「さく」なんです。

「笑う」も柳田國男は「割る」と同源だといっています(『笑の本願』所収、「女の咲顔」)。天照大神が岩戸に入ったことで世界に訪れた暗闇を打破する、つまり閉塞状態を「割る」のがこのときの神々の「笑い」だというのが柳田國男の考えですね。

 

P103

釈 『論語』の中の生と死の境界に関することとして、「怪刀乱神を語らず」(述而篇二〇)がよく知られています。不可思議なことや神秘的なことは語らないという態度ですね。・・・そういった境界領域に関して『論語』では何か語っているんでしょうか?

安田 はい、「怪刀乱神を語らず」というのは、誤解されている章句ではないでしょうか。

 孔子は、現代から見ると、むしろ「怪刀乱神」の世界に住んでいた人だと思うのです。・・・

 ・・・

 ここでいう「怪刀乱神」というのは、神秘的なことというよりも、もっと暴力的な話ではないかと思います。

釈 暴力的というのは?

安田 この「怪刀乱神」は「怪・刀・乱・神」とひとつひとつ分けて読まれますが、「怪刀」「乱神」と二つの熟語として読む読み方もあります。

「怪」という字は中に「土」が入っていることでもわかるように土の神です。それに対して「神」は「中」が稲光の象形ですから天空の神。それに「力」と「乱」がつくので、土の神の力を使って自分の願いをかなえたり、天空の神の力を使って世を乱したりすることを戒めるということだったのではないかと思うのです。

釈 そうなんですか、面白いなあ。

安田 そうなると「怪」や「神」自体はむろん問題ではない。それが「力」や「乱」と関係をもってしまうのが問題だとなります。

 もっとだいぶあとの時代(漢代)、「巫蠱の乱」というものがあるのですが、これなどは呪いを使って太子を廃そうという企てで、まさに「怪刀」や「乱神」ですね。「怪(大地の神)」や「神(天空神)」の力を自分の願いをかなえるパワーとして使ったり、さらには他人を呪い殺すことに使ったりとか、そういうことをすることに対する戒めが、この「怪刀乱神」だと思うのです。

釈 つまり、カルト宗教への戒めといった言葉だと考えることもできるわけですね。

安田 はい。

 ・・・

釈 孔子がわざわざオカルトやカルト宗教への警告を行ったのは、その当時にそういった営みがあったり、集団があったりしたということですよね?

安田 そうなんです。「義を見て為ざるは、勇無きなり」(為政篇二四)という句が『論語』の中にありますでしょ。この句は、前後の文脈から考えると、「本来は祀るべきものではないものを祀るのを、ダメだと言えないことは勇気がないことだ」という意味のようなんです。

釈 そうなんですか。やはり、古語を調べたり、前後の文脈を読んだりするのは大切だなあ。そういえば、『梁塵秘抄』の有名な今様「遊びをせむとや生まれけむ」の「遊び」にも「宗教儀礼」の意味がありますよね。

安田 そうですね。遊びはもともとは「神遊び」ですものね。

釈 だからこの今様は、「神や先祖を祀るために、我々は生まれてきたんだ」というような意味が内包されているわけで。

安田 おお!たしかにそうですね。孔子の時代は、それがいろいろ崩れ始めた時代なんでしょうね。

 

P123

安田 そもそも「禮」は先祖の霊といかにコミュニケートするか、そのための技法でした。で、そんな非在の存在である先祖とコミュニケートできるんだったら、それを人間にも応用したらいいんじゃないか、というのが、いま僕たちが使う「禮」です。

釈 もともとは祖霊とのコミュニケーション技法だったのですね。

安田 はい。さきほどの三礼のうち『礼記』は、どちらかというと人間関係の「禮」、コミュニケーション方法が中心に書かれているので、わかりやすいんです。

 しかもなかなか細かいことも書かれています。たとえばご飯を食べるときには、椅子に浅く腰をかけ、人と話をするときはゆったりと座るといい、みたいなことも書かれています。

釈 死者とのコミュニケーションが先立っていて、それを人間関係に活用するわけですね。非存在者とコミュニケートできるようになれば、存在者とのコミュニケーションなんて楽勝ですよ、ってことでしょう。そんなの、ちょっと、考えられないような理屈じゃないですか。

安田 はい。

釈 なにしろ現代人の苦悩の大半は人間関係ですから。

安田 たしかにそうですね。

釈 これは使えるかもしれないなあ。人間関係に熟達するためには、まず死者とコミュニケートしよう。

安田 本当ですね。ははは。

釈 そこから始めろ。なんかイケるような気がする……。

 

P142

安田 古代メソポタミアの家が発掘されているのですが、中に祭壇があって、この祭壇が、家そっくりなのです。

釈 へえ。

安田 で、最初は祭壇が家(住居空間)を模したのかとも思ったのですが、でもこれは逆で、祭壇を模して家を作ったのかもしれないと思って……。僕たちの家だって、ただ住居だったら、屋根があって壁があればいいのに、わざわざ祭壇のように装飾をするのって考えてみたら変ですよね。

釈 はい、そう思います。やはり「家」というのは、生きている人間だけのものじゃない。半分は死者のため、あるいは半分は神のため。死者とともに暮らす、神とともに暮らす、それが人間の「家」の源流じゃないでしょうか。

 ・・・

安田 ・・・日本も、縄文遺跡などでは、お墓は街はずれじゃなく、土地の一番いいところに作って、お墓のまわりに家を建てますものね。

釈 そうなんですよ。集落の真ん中にお墓を設定しています。時代が下るにつれて、集落のはずれへと移動していく。

安田 はい。

釈 そこはお墓であるとともに、宗教儀礼の場でもある。シャーマンが神がかりになる舞台だったりして。

安田 あ、なるほど。そうですね。

釈 ときには芸能の場となる。

安田 おお、そうですね、そうですね。

釈 そこに集う人たちが観客になれば芸能の発生です。

 しかし、次第に集落から死者が排除されていくんですね。それが極端になったのが近代の都市です。それまでの墓地は、集落のはずれに位置するものの、微妙な距離を保ってきたようです。集落と墓地の距離は、黄金率みたいなのがあるそうですよ、中沢新一先生がおっしゃっていました。日常の隅っこに置かれるものの、意識しながら暮らす距離があるんですって。それが近代成長期になって崩れてしまったそうです。