ブロークン・ブリテンに聞け

ブロークン・ブリテンに聞け Listen to Broken Britain

 こちらも下書きしたままになってました・・・

 昨日の本と同様に、とても興味深く読みました。

 

P19

 2017年の暮れも押し迫った頃、一家でブリュッセルに旅をした。ブリュッセルといえばEUのお膝元であり、そのため「ヨーロッパの首都」と呼ばれる都市だ。そこで、現地の観光名所の一つであるベルビュー博物館に行ったときのことである。

 それは、ベルギー王室の歴史から始まり、ブリュッセルがヨーロッパの首都になるまでの都市の民衆史も学べるインタラクティブ博物館になっていた。「民主主義」「繁栄」「連帯」「多元主義」「移住」「言語」「ヨーロッパ」という七つのテーマの部屋に分かれて、その主題に沿った展示品が並べられている。通路や部屋の入口には幾つもスクリーンが設置されていて、ベルギーの市井の人々が社会や政治について語っている映像もノンストップで流れていた。

 例えば、「連帯」がテーマの部屋には「共闘は力」というスローガンが掲げられ、「衝突から組織へ」「自発的な団結」「福祉国家へ」といった小テーマのもとに展示品が整理されており、労働運動の発展の歴史がわかるようになっている。また、「多元主義」の部屋では、カトリック教育は民主主義に反するという議論が巻き起こった19世紀末の「学校論争」、いまやカトリック信者が人口の半数以下になった現代のブリュッセル、同性愛者の結婚の権利などが高らかに謳われ、「移住」のコーナーでは移民・難民の権利、「ヨーロッパ」の部屋ではEUの理念と反戦の誓いなどが展示物のテーマになっていた。

「すげー、ここ、めっちゃ面白いんだけど、ぶっ飛ぶほどレフトだな」

 展示物や映像を見て回りながら、配偶者がそう言った。

 確かに、英国から来た我々からすると、思想的な方向性を一直線に打ち出した博物館に見えた。館内には、先生に先導されて学校から来ているらしい小学生たちもいる。

「さすがブリュッセルとしか言いようがない」

 配偶者は、輪になって先生から説明を受けている子どもたちを見てしみじみ言った。

「考えてみりゃ、俺らが若い頃は、『同性愛者の結婚なんてとんでもない』とか、『移民とつきあうな』とか『日曜は教会に行きなさい』とか言って大人たちが保守的だったから、『ふざけんな』って若者がレフトになったわけじゃん。レフトは体制に反抗する不良だったんだよ。ところが今は、小学生のうちからこういうところに連れて来られて、先生から『同性愛者の結婚は当然です』『移民制限は人道的ではありません』『クリスチャン教育は多元主義に反します』って教えられるわけじゃん。すっかりレフトのほうが体制側になってるんだなって、隔世の感があるな」

 これは1956年にロンドンで生まれ、60年代、70年代、80年代のストリートの動乱と変遷を見てきた彼にとっては率直な感慨だろう。確かに、レフトな思想が世間的にワルくて、アウトサイダー的クールさを発散していた時代もあった。しかし、今やそれが学校で教えられる世間的な正しさの規範となり、レフトが優等生の位置を獲得したのだ。

 年が明け、再びそのことを考えさせられる一件があった。マンチェスター市立美術館の「ヒュラスとニンフたち」撤去事件が勃発したのである。

 ・・・この絵画はギリシャ神話をモチーフにしており、美貌の少年ヒュラスが泉に水をくみに行った際、妖精たちが彼の美しさに魅了され、彼を泉の底に引き込んだという物語の一場面を描いたものだ。

 そこには泉から裸の上半身を出した妖精たちが描かれてはいるが、ラファエル前派の作品だからセクシーとか肉感的というよりは、どちらかといえば内田善美の漫画のような絵だ。同美術館は、女性の体を「受動的で装飾的なモチーフ」または「ファム・ファタール」として描いている絵画は21世紀の美術館で展示するに相応しいかどうか、来館者たちの意見を聞くために撤去したと主張した。絵画が展示されていた場所には、来館者がポスト・イットにコメントを書いて貼ることができるスペースが用意された。残されたコメントには圧倒的に撤去に対して批判的なものが多く、ネットにも怒りや不快感を示すツイートが殺到した。

「私は学生たちをあの美術館に連れて行って、ビクトリア朝時代の女性やジェンダーに対する態度を分析しているのに」という教員のつぶやきや、ギリシャ神話の同じ場面を描いた絵画をアップして(こちらのほうが妖精たちの露出度は高い)「同時代に女流画家、ヘンリエッタ・ラエが描いた同じ場面。競売会社クリスティーズは『彼女は女性の裸体を強調して古典的テーマを多く描いた』と解説している」とツイートした男性もいる。

 この騒ぎは世界中に広がって国際的議論に発展し、マンチェスター市立美術館は、実はこの絵画の撤去はそれ自体がアート・プロジェクトの一環として行われたものであったことを発表した。

 このアート・プロジェクトとは、同美術館で3月23日から9月2日まで行われるソニア・ボイス展の一部だという。ソニア・ボイスは、挑発的なテーマを扱う現代アートの作家として知られ、わが街ブライトンでも物議を醸す個展をやったことがある。・・・

 今回のマンチェスターでの実験的プロジェクトは「女性の体の表現……ビクトリア朝のファンタジーに疑問を投げかける」というタイトルがついている。ボイスがブライトンで行った実験と同様、人々が「ふつうだと感じていること」に異常なシチュエーションを与えることによって議論を喚起する手法だ。が、今回はブライトンのときとは違うマグニチュードで騒ぎになったのは、もちろん#MeToo運動や#TimesUp運動と連動しているからなのは間違いない。

 だが、それだけでもないように思える。ここで問題なのは、ブライトン博物館&美術館で個展を行った1995年から2018年までの間に、レフトの社会的ポジションや捉えられ方が大きく変化してしまっているということではないだろうか。だからこそ、23年前に展示物の陳列をトレーシングペーパーで覆ったときには「面白いことするねー」とか「勇気あるねー」で終わったことが、いまは「一般人をばかにしている」と言われてしまうのだ。

 つまり、主流派の考え方に疑問を投げかけ、体制に反逆するアウトサイダーだったはずのレフトが、いまや主流派そのものというか、ふつうに学校で教えていることを主張するのにいまだパンク気取りで奇抜な方法を用いているから「クール」どころか「むかつく」と言われてしまうのである。だから美術館の壁からいきなり女性差別的な絵を撤去するというゲリラ的な行為を行っても、「こうした作品は風紀的に好ましくない」か何か言ってエリート校の壁からヌード絵画を外す厳格な校長先生みたいに見えて人々の怒りを買うのだ。

 ・・・

 政治的主張を含む芸術をウザい説教にしないためには、より繊細で洗練された手法が必要になってきているのは間違いない。