本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた

本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた (光文社新書)

 

 以前一度読んだはずが、あんまり記憶にない・・・ということはよくあるのですが、この本もそうだったので(;^_^A、再読しました。

 

P34

日本人の身体 (ちくま新書)

 日本人の身体 安田登(ちくま新書)2014.11.02

 

 24歳、上京するなり業界の先輩が喫茶店で「注文、何にする?」と聞いた。「何でもいいです」と曖昧に答えたら「東京では白黒はっきりすべきだ」と一喝を食らった。もし今、同じ質問をされても同じ答えをするだろう。

 何でもいい時は何でもいいのよ。そして東京も、知的近代主義みたいなのもヤだなと思った。曖昧さは僕の持ち味として白黒の境界を生き、創造を反復させてきた。曖昧でいることは僕にとって最も自由な状態で、白黒はっきりさせることは僕の中から遊びを追放することであり、創造を否定することにもなる。

 さて、幸運にも本書に出会い、目からウロコ。曖昧さを日本の特性として日本人のおおらかな身体観と捉え、自分と他者、生者と死者の境界線も曖昧という。著者は能楽師として能の世界に例をとりながら、幅広い領域で新しい現代の古典的身体論を展開する。

 ・・・

 さて、日本人の身体とは?古典が語る日本人の身体は「からだ」を死体とみた。一方、生きている身は心と魂とひとつのもので、さらに「こころ」でも「思い」でもない深層にある「心シン」を手に入れれば自由自在に宇宙と戯れ、差異を超えて、心も行いもない状態へ導かれるという。

 また人は老境に至るにつれ曖昧を生き、「老い」を「生い」と考え、成長ととらえる。老齢になると確かに自他の区別も曖昧になりますね。

 

P61

フリープレイ 人生と芸術におけるインプロヴィゼーション

フリープレイ

人生と芸術におけるインプロヴィゼーション

ティーヴン・ナハマノヴィッチ、

若尾裕訳(フィルムアート社)2014.10.26

 

 「新しいものの創造は、知性によって達成されるものではない。内面の必要性から、直感的におこなわれる遊びプレイによって達成される」(ユング

 本書は、人生と芸術におけるインプロヴィゼーション(即興)のこころの内側を発掘する即興ヴァイオリニストの探究の書である。

 著者は創造時に即興的体験によって、音楽的行為の範疇を超えたスピリチュアルな領域に自己を見いだし、インプロヴィゼーションこそ創造の「マスターキー」と考えた。そして全ての芸術がインプロヴィゼーションを核としていることに気づき、創造を「至上の遊び」と規定する時、制約から解放され、自由な精神を獲得する。

 芸術が創造される時、私たちは子どもが遊ぶ時のように夢中になり、私が消える必要があり、自己と環境が一体化する。この瞬間、私たちは知性や知識から完全に解放された<サマディ(三昧)>状態になり、恍惚と感覚の覚醒を体験することになる。

 私がキャンバスに向かい、一種の陶酔を覚える時、頭の中から言葉が追放され、ものが考えられない状態を味わい、身体的な技術のみの動作に体をゆだねることがある。この瞬間は描く目的も手段もなく、筆先が勝手にキャンバスと戯れているのを、他力と自力の中間で見つめている。創造意識からも離脱して、やっていることに成り切っているとしか言いようがない。

 このような瞬間、インプロヴィゼーションは<自由>になるために「限界を越える手段として形式や制限を使」うと著者は言う。無意識の享受を恐れる者にとってはインプロヴィゼーションは危険である。しかし失敗こそ芸術神の恩寵でもある。

 著者は「失敗の力は、創造を阻むものの枠組みを変え、それらを逆転させることができる」と語る。創造的側面に限らず、人生においてもインプロヴィゼーションの力は働く。