こういう時期もあったのだなぁと、そしてやっぱりその人にあった生き方をしていれば、ちゃんと展開していくんだなと思いました。
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肝心のゴールデントライアングル行きの目途はいっこうに立たない。・・・国境を越えてミャンマー・シャン州のクンサー軍エリアに入ったこともあるが、大きい村みたいな場所に兵隊や僧侶や一般の農民がいるだけで、面白いことは何もなかった。ミャンマーを旅行したりもしたが、旅としては楽しくても、原稿に書けるほどのことはなかった。
語学の進展もなかった。生活に最低限必要なタイ語は話せたけれど、込み入った話はできないままだったし、勉強しないものだから、どんどん読み書きの能力が落ちていった。
ビルマ語は、ミャンマーを旅するとき以外はめったに使う機会がなかった。
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楽園の中、だらだらと日が過ぎていく。突然ハッと恐ろしくなる。「俺はこのままでいいのか?」浦島太郎の気分だ。
帰らねばと思う。どこへ?とりあえず東京である。なにしろ生まれ故郷だ。でもそこには三畳間のアパート以外、自分の居場所はない。同級生や先輩後輩の多くは就職して普通に暮らしている。・・・人に会うのが怖くなった。知り合いであっても初対面の人であっても。「何してるの?」と訊かれると絶句してしまうのだ。だって、何もしていないのだから。学生気分が抜けないまま、三十歳近くなってもぶらぶらしているのだから。
すると、今度は「中国へ帰ろう」と思う。この頃、いちばんできる外国語は会話も読み書きも中国語だった。莫先生と友だちもいる。そこが故郷のような錯覚に陥る。中国専門のライターになれば、当分食っていけそうな気がする。
だが、そんな甘い考えで大連に行くから、莫先生に「おまえは何がしたいんだ?」と言われてしまったのだった。
莫先生は以前、私のことを「君は語学の天才だな」などと感心してくれたものだが、もはや全くそんなことを言わなくなった。私がすぐに学習に飽きてしまうことを知ったからだ。
「高野、おまえのいちばん嫌いなところは『懶』(怠け者)だってことだ」とワニのような目でギロッと見ながら、不機嫌そうに言ったものである。
返す言葉もなかった。地道に勉強するのは苦手。地道に働くのはもっと苦手。興味が湧かないことは苦痛でしかなく、その苦痛に慣れようとするこらえ性もなかった。
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とにかく、胡散臭い人間になりはてていた。当時、アジア諸国にはそういう日本人がいた。いろんなところに顔を出し、いろんな言語をちょっとずつ喋り、いろんなことを訳知り顔に話すのだが、何をしているのかわからないという人たちである。
「うちのかみさんが言ってたぞ」と莫先生は追い打ちをかける。「あの子はもう若者じゃないよ。これからいったいどうするつもりだって」
先生の奥さんにまでうちの母親と同じことを言われているとは……。自分は国際的なダメ人間だったのかとますます落ち込んだ。
今さらのように、語学だけでも何か一つ決めて最低三年ぐらい腰を据えて頑張ろうとときどき思った。中国語でもタイ語でもビルマ語でも。だが、「何のため?」という疑問が湧き起こると、たちまちモチベーションは朝方の霧と同じくらい呆気なく散った。
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問題は語学ではない。手に職をつけた方がいいのではないかと、これまた今さらのように思うこともあった。中国で深い取材や調査ができないと前に書いたが、ジャーナリストか研究者なら可能かもしれないのだ。どこかの大学院に入って勉強した方がいいのかもと思ったが、よく考えればそれは京大大学院受験を放棄したときにすでに諦めた道だった。
では、ジャーナリストになるべきかと思い、後輩に紹介してもらって、農業の業界新聞でバイトさせてもらったが、一週間と続かずに辞めてしまった。日本の農業も業界新聞も両方とも興味が全然もてなかったからだ。だいたい私は海外の辺境が好きなのだ。そんなことは最初からわかっていたことなのに、なんて「今さら」の結果だろうか。
しかし、最大の「今さら」は、自分の人生自体が間違っているのかもと思い始めたことだった。これまで語学中心のRPG方式で目標を達成してきた。でもそれはあくまで数カ月や二、三年の短期的な目標のためである。人生というとてつもなく長いゲームはそんな単純なやり方では攻略できそうにない。というより、人生はゲームなんだろうか?・・・私はおめでたいことに、それまで一度も人生について真剣に考えたことがなかった。
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唯一続けていたのはゴールデン・トライアングルへの準備である。英語の資料を探しては読んでまとめるという作業は、日本でもタイでも続けていた。しかし、知れば知るほど、「行きたくない」という気持ちにもなった。世界屈指の麻薬地帯である。自分に歯が立つのか。・・・結果としては先人が誰もいない道を自力で切り拓かねばならず、いちばん難しい選択をしてしまったのかもしれなかった。
ゴールデント・ライアングルが私にとって「最後の砦」となっていた。言い換えれば「最後の言い訳」なのだ。もし行けてしまえば、言い訳は残らない。
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「タカノ、ワ州なら行ける」
ミャンマーの反政府ゲリラ、シャン州軍の元総司令官であるセンスックにそう言われたのは、中国かチェンマイへ舞い戻ったときだった。
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・・・シャン人やビルマ人はワ人のことを「すごく野蛮」「恐ろしい」と言っていた。ワ州はゴールデン・トライアングルの核心部とされ、非合法アヘンの六割がそこで作られていると言われていた。そして、外国人は誰も長期でそこへ入ったことがなかった。
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嬉しさと戸惑いと半々だった。ワ州は秘境中の秘境だからそこへ行けることは嬉しい。ありえない幸運と言っていい。いっぽうで、全く様子がわからない世界は無気味だし怖い。しかも言語の問題がある。ワ州はミャンマーでも治外法権であり、ミャンマーの共通語であるビルマ語、シャン州の共通語であるシャン語も通じないという。一般の村人や軍隊の共通語はワ語。ワ語?どんな言語か見当もつかない。
「でも」と元司令官は言った。「軍の幹部や一部の教育を受けた人たちは中国語を話すらしい」
「おおっ!」と思った。それなら何とかなるじゃないか。
もしこのとき私が中国語を話せなかったら、ワ州行きは限りなく難しかっただろう。英語もビルマ語もタイ語・シャン語も通じないのである。
中国語をやっていてよかった!と心底思った。中国かゴールデン・トライアングルかどちらかに専念すべきだと思いながら、決心がつかず、両方をだらだら行き来していたことが結果的に功を奏してしまった。自分の優柔不断に乾杯だ。