自由に

アフリカ出身 サコ学長、日本を語る

 最後にあった、内田樹さんの解説も印象に残りました。

 

P210

 僕はこれまで日本で暮らす外国人とたくさん会ってきましたけれど、サコ先生ほどナチュラルに日本語を話す人には会ったことがありません。・・・

 もちろん、サコ先生が語学の天才だということが第一の理由だと思います。なにしろ、一年間で中国語をマスターして大学に入り、一年間で日本語をマスターして大学院に入った人なんですから。

 でも、それだけじゃないと思います。それだけでは、あんなにうまくならない。サコ先生には日本社会と日本文化を深く理解したいという思いがあったからだと思います。

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 中国留学中のサコ先生は「私にとって、『日本』は謎の存在だった」(四七ページ)と書いています。日本人留学生たちの「電化製品をいっぱい持っていて、いつもレトルトカレーを食べている」生活態度から「とにかく人工的に作られたものを好んで使っている日本人。きっと、合理的、機能的に作られた工業製品に囲まれて暮らしているのだろう」と思った。特に好意的な記述ではないですね。でも、一九九〇年の夏に日本を訪れて、サコ先生の日本の印象は一変します。

 パッチはいて「だらしなく過ごしている」お父さんや、ビール飲みながら「わけのわからんテレビ」を見て大笑いしているお母さんを見て、サコ先生は「いいな」と思います。

「パターン多いやん。面白い。

 日本にもこういう明るい社会があり、社会性や地域性やコミュニティ感覚があって、人懐っこい人間たちがいる事実を、初めて確認した。」(五〇ページ)

 サコ先生において「日本で暮らしてみたい」という欲望が起動したのはこの時でした。サコ先生の関心を日本に向けたのはまさにこの「面白さ」でした。そして、サコ先生をわくわくさせた「面白さ」は「だらしなさ」と「わけのわからなさ」でした。僕はここにサコ先生の真骨頂があるように思います。・・・

 教育を論じた章でも、サコ先生は「だらだらすること」のたいせつさを語っています。

「学校以外の、誰にも制約されない時間やだらだらした時間を使って考え、遊びや家庭での経験とシンクロさせて自分の中に落とし込んでいく、というプロセスも必要だ。個性は、そうやって伸ばしていくものであり、余暇の時間をしっかり使うことによってしか、自分自身は成長しないのではないか。」(一三〇ページ)

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 ・・・サコ先生のように、子どもたちが十分に「だらだらしていないこと」にこれほど驚き、また悲しんでいる論者を僕は他に知りません。・・・

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 サコ先生の言う「だらだら」というのは、「査定されたくない」「格付けされたくない」「意味づけされたくない」という積極的な志向のことなんじゃないかと僕は解します。そして、サコ先生の語彙だと、それがたぶん「自由」ということなんだと思う。