自分なりに生きていく

いのっちの手紙 (単行本)

 印象に残るところがたくさんあって、もう少しこの本から書きとめておきたいと思います。

 

P83

 どうやっていのっちの電話の相手の長所を見つけているかという最後の質問ですが、一体、僕はどうやっているんでしょうか。自分でもなかなかよくわかっていません。みんな「自分には何もない」と言います。でも、それでも何にもないわけがないことを僕は知っています。なぜなら僕もまた自分には何もない、と言うからです。そして、その時は本当に何もない、何にもできないと感じています。嘘ではないし、謙遜でもないです。だから、みんなが何にもないと言うことも理解できます。僕もそうだからと伝えます。良いところがあるようには見えない。しかも、鬱の時は貧困妄想も強くなっているので、お金にならないことは全てダメということになってます。自分に得意なこと、自分がやりたいこと、などと考えてもうまくいきません。将来の夢みたいな方向ではうまくいきません。それを使って、将来お金が稼げるようになるみたいなことも僕はほとんど話しません。むしろお金になんかならなくていいと伝えてます。そうじゃなくて仕事になってもならなくてもお金になってもならなくてもどっちにしても、ずっとやり続けたいと思えることを探した方が、楽です。周りの環境によって、状況が変わるのは健康創造に向いてません。どんな状況だろうが、変わらず継続できること。それを見つけようと試みている気がします。

 

P119

 僕にとっての承認欲求はどんな感じなんですかね。いくつもの段階がある感じですかね。家族に対する承認欲求は、自分がやっている遊びみたいなことが実は仕事になっている、ってことのような気がします。というか、家族はもうそれを完全に承認してます。僕のことを遊んでいるだけだ、と思っているのは、家族の中で僕だけのようです。僕は自分で遊んでいるだけだと思ってしまってます。何か責任のあることをしないといけない、みたいなバカみたいなことを時々真剣に考えたりしてます。僕はまったく自分を承認できていません。一方、家族は完全に承認してます。バカにされたことなど一度もありません。僕が一行も原稿も絵も描けずに、部屋に篭もって項垂れているときでも誰一人としてバカにしません。バカにするのはいつも自分です。そこはいつかどうにかしたいと思ってます。でも最近は、自分の頭を叩いたり、なんてお前はダメなんだと強く叱責したりすることはしなくなりました。それは一昨年くらいからです。

 僕の文章を毎日読んでくれている友人も、絵を毎日みてくれる友人も、歌を作ったらいつでも送っている音楽家も、陶芸を作ったらいつも見せる陶芸家も、僕より僕のことを承認している可能性があります。僕がなぜ送るかということについては「僕が元気にしている」ということを伝えるためが大きいです。でもそれすらその友人たちは求めていません。元気がないならないなりに面白いものを作るというふうに感じている可能性が高いです。・・・これを書いている今は、まったく鬱ではないのですが、躁でもありません。僕はいつもどうすればいいのかがわからないので、次の道を教えてもらうために関係をつくります。僕は承認欲求のための関係性を作っていないのかもしれません。わからないので教えてほしいと思って、関係性をつくります。迷子なので、道案内をしてほしいわけです。・・・

 

P159

 主張や作家性をほとんど感じない、というのはなんなのでしょうね。僕もそんな感じはしてます。でも編集者や美術のキュレイター、レコード会社の人から、もっと主張を、とか、もっと作家性を出していかないと、とか言われたことがこれまで一度もないかもしれません。むしろ、そのままでいいよ、と言われて育ってきたので、僕も変に自分の色を出さないと、とは思ったことがないのです。それは今、さらに強くなっているかもしれません。・・・それよりも、自分が感じたこと、それこそ、その思考の時空と触れた瞬間のまんまを、できるだけ、そのままに、手をつけずに、出す技術が高まっているような気はしてます。自分でも、変な「意識」が入っているとすぐわかりますので、意識を見つけると、雑草を抜くくらいの、僕の畑は雑草は適当に生えてますから、それくらいの適当さで、意識を取ります。あとは、その瞬間に注意します。その瞬間にしかできないことを、即興ではなく、周到な準備をして、でも構成をせず、下書きもせず、焦らず、時間をゆったりと感じ、でも早く、一瞬のうちに出してみたいんです。できているのかはわかりませんが、そういうやり方が好きです。

 

P174

 執着は一切ないです。僕は明日死ぬと言われても、本当に、何の後悔もないみたいです。だからこそ、やりたいことは今思った瞬間にやりますし、やりたいことをやらないでいると、病気になります。だからこそ、妻にもよく怒られるのですが、だからと言って、家族を失うのが怖くて、やりたいことをやらないで済ますということができません。やりたいことをその瞬間にやる、という欲望はとても強いです。それが僕にとっての生きるということです。・・・僕は欲望を通り越して、創造意欲によって生きていますし、修理意欲もすごいので、壊れても問題なしなので、大事にするという感覚がありません。それよりも好き勝手に自由に使い倒す。そして、何よりも、僕はいつ死んでもいいのですから、命を守るという意識が薄いです。それよりも、意欲のまんまに動くことを優先します。何よりも優先します。なぜなら、それが楽しいからです。喜びを感じるからです。それ以外の人生は僕には想像できないからです。・・・この手さえあれば、たとえ一人になっても刑務所に入っても金がなくなっても作り続けるということを知っています。知っているので、信じる必要がありません。守る必要もありません。誰かの参考になるとは思いませんが、それでも死にたいと電話をかけてくる人にこの喜びを伝えると、彼らはいつも少し驚き、なぜかあとには、少しほっとしてくれるようです。・・・僕は、自分なりに生きていく、ということがどういうことかを、その道を進んできて、見つけたというのか、完全に覚悟ができたんだと思います。ここまで長い道のりでしたが、だからこそ、躁鬱病も治癒したのだと思ってます。そして、このように生きる道を見つけることは僕は誰にでもできることだし、むしろ、誰もが、試さなくてはならない試練だと思ってます。・・・