ショパンと融け合う

終止符のない人生 (幻冬舎単行本)

 読んでいるだけで感動を共有できるような・・・音そのもの、曲そのものになるような感じでしょうか・・・

 

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 モスクワ国立音楽院へ留学する直前、桐朋学園大学音楽学部の片山敬子先生に師事していた時期がある。・・・

 片山先生は聖母のような存在であり、怖いくらいに心の中を見事に見抜く特殊な眼力をもっていた。今僕が何を悩んでいるのか、頭の中で何を考えているのか。何も言わなくても手に取るようにお見通しなのだ。「あなたが今考えていること、思い悩んでいること、あなたの人間性が全部演奏に表れるのよ」とよくおっしゃっていた。

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 片山先生からは「技術力を磨くだけでは一流のピアニストになれない」という大切な真理を教わった。これはピアノに限らず、人生万般に通じる大切な哲学だと思う。片山先生から教えていただいた中で、今も忘れられない強烈なメッセージがある。

「偽りの自分のままピアノを弾くのはやめなさい」

 若い時期は、どうしてもカッコつけようとしたり、自分を身の丈以上に良く見せようとしたがる。そんな姿勢はただの虚飾だというのだ。「オレがオレが」とガムシャラにエゴを前面に出すあまり、演奏が突っ走りすぎたり、逆に不必要に遅くなりすぎることもある。

 作曲家がどういう思いで譜面を書いたのか。その譜面を読むピアニストが、何を思って邪心なく素直に表現すればいいのか。片山先生がこうおっしゃったことがある。

「ありのままに弾いてごらん」

 この言葉は僕の心に強烈に刺さった。そのときの僕は肩肘が張っていて、ありのままにピアノを弾けていなかったのだ。

「自分はどういう演奏がしたいのか。一度冷静になって、胸に手を置いて考えてごらんなさい。一音目が鳴り始めたら、そのまま時の流れのように淀みなく弾く。一度音楽が始まったら、音楽が終わるまで、まるで呼吸するかのように演奏してみなさい」

 それまで一分の邪心もなく、ただ無心にピアノを弾いたことなんて一度もなかった。だからアドバイスを受けてハッとした。

「あなたの核は無邪気な子どもでしょう。童心に帰ってピアノを弾いてみなさい」

 そうアドバイスされたこともある。

 ショパンコンクールの予備予選に臨んだ2021年7月、片山先生から教えていただいた理想の演奏を実践できた。2音分の長さのドを鳴らそうと鍵盤に指を置いた瞬間から、ハンマーによってピアノの弦が弾かれ、振動してうねる様子が頭に思い浮かぶ。音形と音波がどのようにうねり、ハンマーやピアノ弦といった一つひとつの部品がどのように駆動しているのか、目に見えてはっきりわかった気がした。

 ドミソの和音を弾いたとき、ワンワンワンと音が振動して、ある一定の時間を過ぎると音形と音波が減衰していく。程よく減衰したころ、次の音を足してあげる。自分の五感を完全に信じ、難なく思うがままにピアノを弾けた。一言で言えば「自在」としか言いようがない感覚だ。

 一音目がスタートした瞬間から、音楽が一度も止まらない。物理的に音を切らなければならない休符の場面では、無の時間にも「ゼロの地平」という音なき音が鳴っていた。

「ああ、これがショパンなのか」と初めて知覚した瞬間だった。

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「瞬間瞬間を後悔しないで生きる。今この瞬間、自分が出した音に悔いのない生き方をしたい」

「今日はこれだけピアノを弾けたのだ。もう後悔は何ひとつない。演奏が終わった瞬間、ステージ上で倒れて死んだとしても本望だ」

 極端な話、僕は「いつ死んでもいい」という覚悟で昔からずっとピアノを弾いている。会場が大きかろうが小さかろうが、聴衆が2000人だろうがたった一人だろうが、コンサートを差別しない。絶対に手抜きをしない。すべてのステージで、毎回全身全霊でピアノを弾き切る。

 この姿勢を失って慢心するようであれば、死んだほうがマシだとさえ思う。

 

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 僕はピアニストでありながら、指揮者を志している。ショパンコンクールのファイナルでは、弦楽器、金管楽器木管楽器、打楽器の奏者が一堂に会する。ショパンが書き記したスコア(総譜)の全パートが、ファイナルのステージではワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団によって演奏される。

 どのパートの演奏者が、どういうタイミングで音を飛ばしてくるのか。本番の途中、演奏者の誰か一人がミスやアクシデントを引き起こす可能性もある。何があろうが、本番中にカバーできる絶対的な自信があった。虫眼鏡で観察するようにスコアを徹底的に読みこみ、本番中の一音一音を一つも聞き漏らさないまで集中をしていた。

「ああ、自分はなんと幸せ者なのか。ショパンに出会えたおかげで、僕の人生はこんなにも豊かになった。ピアノをやっていて本当に良かった」

 ステージでピアノを弾きながら、全身の細胞が歓びに打ち震えた。僕の夢のような40分間が終わった。

 音楽と初めて出会ってから20年以上が経過した今、人生で最も満足のいく演奏ができている。1分1秒の瞬間瞬間に、永遠が凝縮されているかのような濃密な時間だった。尊敬するショパンが書き遺してくれた譜面に没入し、今僕はショパンと同じ時間を生き、ショパンと融け合っている。

 恍惚と陶酔の輝きに身を浸し、全身全霊でピアノ協奏曲第1番を弾き切った。

 僕が追い求めていたショパンが、今ステージ上に姿を現した。あの瞬間、僕は饒舌が過ぎるほどにショパンと対話していたのかもしれない。