マアダンの生活

イラク水滸伝 (文春e-book)

 シュメールの時代から続く暮らし方・・・印象に残りました。

 

P262

 かつて湿地帯を拠点にして激しくフセイン政権と戦った「湿地帯の王」ことカリーム・マホウドは「マアダンとは抵抗する者の意味だ」とし、「これほど人情に篤く、われわれを助けてくれた人たちはいない」と語った。

 マアダンこそが湿地民の中の湿地民であり、イラク水滸伝の中核をなす存在だと思いながら、私たちにとってはいまだに掴み所のないものだった。まず、定義がよくわからない。・・・

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 ジャバル・サブンは一九三九年、チバーイシュ町の外れの浮島で生まれた。・・・

 ジャバル・サブンは生まれたときから八十歳の現在に至るまで水牛を飼い続けている生粋のマアダン。・・・

 ジャバル・サブンらによると、やはり「マアダン=水牛飼い」だという。ただし、水牛だけでなく、牛や鶏も飼っていた。移動するときは水牛も泳いで後を付いてきた。銛で魚を獲って売ったり、葦でゴザを編んだり、米を作ったりもしていた。

 これではっきりした。マアダンは水牛中心の生活を送っている人たちなのだ。・・・

「銛で魚を獲る」というのがマアダンの特徴だと探検家センジャ―も考古学者オクセンシュレイガーも述べていた。圧倒的に効率の良い網を使わないで銛に頼ることが定住民から「愚かな連中」と見下される原因の一つであるということも。

 でも当のマアダンであるジャバル・サブンたちに言わせたら「私たちは水牛飼いだから網なんて使わない。使い方も知らない。網で漁をする人たちを見下していた」という。よくよく考えれば、アフワールで網を使った漁はすべて仕掛網であり(投網は見たことがない)、水牛を飼う人たちには使用が難しい。放牧されている水牛が引っかかってしまうからだ。・・・それも「結局、魚より水牛なのか」という定住民からの嘲笑を買い、「当然、魚より水牛だよ」というマアダンの人たちの誇りを生んでいたことだろう。

 もっとも、同時に、彼らは「商売をする人も軽蔑していた」と言い、とても自尊心の高い人たちだとわかる。

 彼らによると、マアダンは誰も土地を所有しないという。氏族のテリトリーはあるが、許可を得れば誰でも中に入って住んでよいとのことだ。

 ただし、抗争はよく起きた。抗争の原因は大きく四つある。

①婚外の性交渉(親の承諾を得ない結婚や不倫、婚前交渉など)

②テリトリーの侵害

③水牛が耕作地の米や小麦を食べてしまう

④盗み

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 四つあるうちの④「盗み」は別な意味でひじょうに面白い。「マアダンは泥棒」という言説は昔からあちこちにある。・・・探検家センジャーも「盗みはマアダンのせいにされる」と書いている。

 バニー・アサド氏族の人たちだって略奪を生業にしていたことがあるのだから、マアダンに対する中傷に思えるが、そうではなかった。なぜなら、私が遠慮がちに「マアダンはよく盗みをはたらくって書いている本もありますが……」と言ったら、ジャバル・サブンたちは「盗み?あー、やったやった!よく盗んでたねえ!」と嬉しそうに言うからだ。いや、びっくりしてしまった。

 彼らが言うには「遠くの氏族のものを盗むことは讃えられた。『夜のライオン』と呼ばれて英雄になった」。

 その場にいたサイイド・アッバスというジャバル・サブンの友達は「俺のおじいさんは『恐れを知らぬ者』と呼ばれて、あちこちで盗みを働いていたけど、最後はハウィザ湖(東部湿地帯)で殺されてしまった。たぶん、アルブー・ムハンマドにやられたんだろう」と言っていた。

 アルブー・ムハンマド(別名モハメダーウィ)とは「湿地帯の王」の氏族で、アマーラを中心とした東部では現在も武闘派として恐れられている。・・・ちなみに、マアダンの好漢たちが狙うのは主に水牛と舟。デイツ(ナツメヤシの実)を盗んで殺された者もいるという。

 いっぽう、ジャバル・サブンはフセイン政権が嫌いだった。八〇年代と九〇年代にそれぞれ一回ずつ家を焼かれたことがあるからだという。

「だから、レジスタンスの人たちをわれわれはみんな助ける。パンをあげるとか、道案内をするとか、警察や軍が来るとウソをつくとか」

 

P445

「マアダンのうちの子は人なつっこいな」と子供好きの隊長は顔をほころばせる。

「たしかに、町の子はもっとお行儀いいですもんね」

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 マアダンの家では女性だけでなく、子供たちももっと自然なのだ。

 夫が水牛の世話をし、子供たちがシェイフ・ヤマダに張り付いているとき、奥さんは独特の手法でパンを焼いていた。ターバック(粘土板)を熱した上にパン生地を載せてから、乾燥させた水牛の糞を燃やし、それをターバック上のパン生地に直接のせるのだ。牛糞を燃料に使う地域はインドをはじめ数多くあれども、直接食べ物の上にのせるところは知らない。でもこんがりと小麦粉が焼ける美味しそうな匂いが立ちのぼってくる。

 寒い朝スペシャル・ターバックと水牛の乳のシンプルな朝食は体を奥底から温めてくれた。

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「マアダンの生活って面白いですね」と私は隊長に話しかける。

「そうやな」と隊長も言う。「この人たちはええ顔してるよ。自然の中で自分の力で生きている人の顔やな。この人たちは、みんな、目に見える範囲のもので生活してるよな。水、葦、水牛、魚、蒲の穂。そこが町の人というか、文明の人たちとちがう」

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「マアダンの人たちはすごく自立してるやろ。ここには食べるものがあって、燃料があって、飲む水もある。それこそこうやってシュメールの時代から暮らしてきたわけだ。今後も水があるかぎり、この生活を維持できる。本当のSDGsだよな」

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 しかも彼らは密林や離島や高山に孤立しているわけではない、わりと文明や国家に近いところにいる。うまく距離をとり、利用できるものは利用し、気に入らないときや自分たちに不利益が及びそうなときはすっと距離をとる、ブリコラージュだ。

 しかも狩猟採集民とも遊牧民とも異なり、グループ単位で行動せず、世帯ごとに独立して家(島)を構えている。現代的な側面もあるのだ。