お金がない!

お金がない! (暮らしの文藝)

 お金にまつわる、古今の書き手によるエッセイ・小説など29篇が収録された本、おもしろかったです。

 

 こちらは杉浦日向子さんの「江戸の、時間感覚・金銭感覚」から・・・

P148

 江戸の時間は不等時法です。日の出から日没までを六等分して、昼の一刻とし、日没から日の出までを同じく六等分して、夜の一刻としました。つまり、一刻の長さが、昼夜で異なることになります。そればかりか、昼間の長い夏と夜長の冬では、昼の一刻に四〇分ほどの差が生じます。季節にそって、時が伸び縮みしました。日常で使う、もっともちいさな時間の単位は「小半刻」、すなわち四分の一刻で、およそ三〇分に相当します。それ以下の時の区切りは、かれらの生活での出番がなかったのです。電子レンジで五〇秒加熱するとか、一〇〇分の一秒を争うという、わたしたちにとって見慣れた「日常」は、かれらにとって奇異な「非日常」に映るでしょう。

 わたしたちにとっての「良い時間」とは、一定間にどれだけ多くの物が詰め込めるか、「時短」と「効率」を問うわけですが、かれらにとっての「良い時間」とは、感動の有無、ああおいしかった、たのしかった、うれしかった、そんな実感の持てたひとときを指し、「仕事がどんどんはかどった時間」は、単なる「忙しかった」に過ぎないとみなすのです。

「早起きは三文の得」とはいうものの、「四文払っても朝寝がしたい」が、江戸の本音。銭形平次親分がクライマックスで投げる、青海波文様の穴あき硬貨は四文銭。「四文屋」という屋台は、煮もの揚げもの焼きもの、なんでも一つ一コイン(四文)で売りました。小僧のこづかい銭がターゲットの、もっとも手軽なファーストフード屋。早起きしたとてたかが三文、「四文屋」の一つも買えやしない。それなら、ぬくぬく寝坊したが得というもの。

「一両は現代のいくらですか?」と問われます。これがむつかしい。「サンピン侍」とは、年俸が現金三両と、大人一人が一年間に食べる量の米を現物支給される下級武士のことですが、それでも一家を養う上は、一両は六〇~八〇万円くらいあってほしい。ところが、長屋の連中が「カカアを質に置いてでも買わざあなるめえ」といきまいた初鰹一尾に、三両の値がつくときけば、高くつもっても一両はせいぜい六~八万円ほどと思われます。そもそも、現代の貨幣価値に置き換えようとすること自体に無理があり、江戸では、時が、季節によって伸び縮みするように、金も、生活の場面に応じて軽重が変化すると考えるほかないのです。

 現代の「時」と「金」に求められるのは「早さ」と「量」で、どちらも数字で優劣を並べることができます。それにたいして江戸の「時」と「金」に求められるのは「質」と「使い方」で、そこにはひとりひとりのライフスタイルが反映されることになり、数値には変換できません。

「多忙」を誇示する現代と、「閑雅」を標榜する江戸。たまには小半刻、雲をながめて現代人をサボるのも、オツなもんです。

 

 こちらは深沢七郎さんの「かけすぎる生活費」から・・・

P151

 働く、という言葉の意味はあいまいである。要するにそのことをやっていて楽しければ、それは運動みたいなもので、働くなどという言葉ではぴったりしない。・・・

 ところが、働くなかに喜びを見いだす、とか、汗を流して働く、などと妙な組合わせをする。喜び楽しんでいれば、それは働いているのではなく遊んでいることであるはずだ。また、汗など遊んでいても出てくるし、暑ければじっとしていても出るものなのである。

 私は五十二歳で、したくてしたくてたまらなくなって農業を始めた。・・・いやでやれば労働だ、仕事だ、楽しくやれば遊びだ、と私はきめている。

 五十九歳になってから始めた今の今川焼も、うまいのをこしらえよう、そういうものを売りたいなア、という楽しみでやっているから仕事という気はしない。遊びである。ただし、趣味と実益、とまでは威張れない。六十近くなって始めたことで、大きな実益は望めぬだろうし、また望みもしていない。やりたくて始めたことである。やりたいことをやる、というのが活きている証拠だと思う。

 私は、埼玉の農場で暮らせば一カ月に二、三万あればくっていける。ミソやナッパ、ダイコンなどは自分でつくり、出費といえばガス、電気代など限られたものだけだからだ。

 私は、人間三日くらい働いて、あと十日くらいはぼーっとしているのがいいと思う。・・・

 ・・・私は、今川焼の商売に飽きたらいつでもやめようと思っている。農業に飽きたら今川焼を、それに飽きたら何をやろうか。何がしたくなるだろうか。だから面白い。この商売をあくまでやり通す、そんな責任感なんかで始めたわけではない。

 タバコ屋などで、朝から晩まで店を開け放しにして客を待っているのは、むだなことだと思う。しょうゆや砂糖を売る店にしろ、何も一日中店を開かなくとも、たとえば午前中は十時から十二時まで、午後は四時から六時までと時間をきめて商いをすればよさそうなものだ。客はその時間にちゃんとやって来て買い物をするだろうから、少しもさしつかえはないはずである。スペイン人などは、こうしてあとの時間昼寝をしたり遊んだりするそうだが、それが一番いいことだと思う。

 日本人は働き過ぎだ。・・・だから、働くのに一種の抵抗を感じるヒッピーが現れたのはうんと良いことだと思う。

 ・・・

 しかし、一緒に仕事をやっていて、隣の人は一生懸命やっているのに自分だけ遊んでいる、というのはいけない。それは、怠け者だからいけない、というのではない。こうしたらみんなが平等に、少しでも楽に仕事が出来る、という仕組みが考えられずに放置されていることがいけないのだ。どんなに忙しくてもその中から遊び時間をひねり出す、というより、働いているのが楽しければそれは遊んでいることなのだから、「働きたいな」と思いながら働いていること、そういう仕事の仕方にしたいものだ。