またもやヒデミネ節が面白い・・・プッと笑っちゃいながら、フムムと考えてしまう本でした。
この辺りは、ドイツの教科書ってそうなんだ・・・すごいなぁと思ったところです。
P18
教科書には随所に「考えてみよう」という問いかけが出されているのだが、どれも難問ばかりだった。例えば、
自分のよいところを見つけ、のばすためには、どんな気持ちが大切なのでしょう。
(『どうとく3 きみが いちばん ひかるとき』光村図書 以下同)
長所を発見するのではなく、発見する際の「気持ち」を問われるのである。同様に人に対して「分けへだてしないで」というテーマでも、こんな問いかけ。
公平にせっするためには、どんな気持ちをもてばよいでしょう。
公平に接しよう、と呼びかければよいのに、やはり「気持ち」が問われている。そもそも公平に接するというのは行為である。気持ちを持ってから行為をするのではなく、行為の後に様々な気持ちが生じるのではないかと私は思うのだが、「道徳」の世界では「気持ち」や「考え」が優先されるようなのだ。・・・さらに私が首をひねったのは「相手のことを考えるということについて、考えてみよう」(前出『小学どうとく 生きる力 4』)という呼びかけだった。相手のことを考えるのであれば思いやりにつながると思うのだが、相手のことを考えるということを考えるとは結局、自分のことを考えるということであり、その相手のことは無視することになってしまうだろう。
考えることを間違えているのではないか。
・・・
その点、ドイツの教科書は大変わかりやすかった。ドイツでは5年生(10~11歳)から哲学に基礎を置く価値教育として「実践哲学科」という教科を学ぶ。その教科書の冒頭に仲よしだというレアとパウルが登場するのだが、それはこう続く。
もしかすると、新しい友達はリナかもしれません。リナとよく遊ぶからです。けれど、リナは一人でいるのが一番好きです。いろんなことを落ち着いて考えることができるし、飼っているダックスフントのディーゼルとはね回ることができるからです。あなたがたも知っているはずです。楽しく、幸せでいる方法はたくさんあることを。
(『ドイツの道徳教科書-5、6年実践哲学科の価値教育』ローラント・ヴォルフガング・ヘンケ編 濵谷佳奈監訳 明石書店 2019年 以下同)
日本の道徳教科書は「みんな仲よく楽しい」ことが大前提になっていたが、ドイツでは「一人でいる」ことの価値を尊重するのだ。海難事故で遭難し、28年間にわたって島で一人暮らしをしたロビンソン・クルーソーのエピソードを紹介し、一人でいることの「良い面」と「悪い面」を考えさせる。そして「たった一人でいることには恐れもあるでしょうが、予想外の力を解き放つこともあります。一定の孤独は、リラックスをして、心を落ち着かせるチャンスになります」と断言するのである。さらにはこうも記されていた。
沈黙するということは、何もしないことではありません。わたしたちは、心の中が静かになって初めて考えを「聞く」ことができます。
P57
・・・中でも奇妙なのは「コミュニケーション障害」、略して「コミュ障」だ。コミュニケーションがうまくできないという障害らしいのだが、そもそもコミュニケーションは失敗とフォローの繰り返しである。うまくできないからこそのコミュニケーションなわけで本人の問題というより「うまいコミュニケーション」「コミュニケーション能力(略してコミュ力)」などという道徳的な幻想が失敗を「障害」に変えているのではないだろうか。自身も不登校で小学校に行かなかったという社会学者の貴戸理恵さんがこう指摘していた。
「コミュ障」とされる人は単にコミュニケーションがうまくいかないのではなく、「うまくいっていない自分を他者はどう思っているか」という再帰的な視点を発生させるために余計にしんどくなっている。
(貴戸理恵著『「コミュ障」の社会学』青土社 2018年 以下同)
コミュニケーションがうまくいっていないだけでなく、うまくいっていないことを他者に気づかれている。気づかれている自分も気づかれる。そうなると「三面鏡をのぞきこんだように、『見る自分、を見る自分、を見る自分……』の連鎖が可視化されていく」らしく、しまいには「自分の足下がぐにゃりとゆがみ、地面はまったく盤石ではなかったと知る」という。つまり足下が歪むほどの恐怖を覚えるそうなのだ。
原因は「道徳」ではないか。
・・・
そもそも「道徳」で「みんな仲よく楽しい」などということを前提とするから、コミュニケーションの「障害」も生じるわけで、それこそドイツのように「孤独」を原点にすれば、コミュニケーションは孤独な者同士のやりとりということになる。多かれ少なかれ障害があるのは当然のことであり、「障害」より技術やルールの「学習」が重要になるのではないだろうか。
P76
ドイツの道徳教科書(『ドイツの道徳教科書-5、6年実践哲学科の価値教育』ローラント・ヴォルフガング・ヘンケ編 濵谷佳奈監訳 明石書店 2019年 以下同)には「子どもの町」という物語が掲載されていた。
あるところに子供だけが住んでいる不思議な町があった。
そこでは争いや口喧嘩が起きず、子供たちが平和に暮らしている。なぜそんなに平穏なのかと大人が見学に訪れようとするのだが、町に入るには許可が必要で、その手続きに数年かかることもある。ようやく許可された大人は3日間有効のビザを持って町に入る。すると監視の子供が付き添い、「あなたは子どもの町の客です。ふさわしい行動を取りましょう」と規則の遵守を義務づけられる。「太い足で子どもの足先を踏まない」「無秩序なことに対して決して苦情を言わない」「『時間がないから』とは決して言わない」「自分に向けられた質問にはすべて答えること」……。それらの規則に違反すると追放されるのだ。現地を調査した大人の学者たちは町が平穏である理由について様々な見解を発表した。その中には「おろかな大人がおらず、子どもが大人から学ぶことができない」からだという研究結果もありました。おわり。
道徳は大人が教えるのではなく、子供から学ぶということか。子供たちは無秩序のように見えるが、それも大人がかかわるから無秩序になるのであって、規則性は子供たちが生み出すものなのかもしれない。