庭とエスキース

庭とエスキース

 不思議な読み心地の本でした。

 

P13

 当時、僕は自分のものではない人生、そう、「遠くにある人生」に触れたいと思っていた。そんな感覚を抱いていたときに出会ったのが北海道で暮らしていた弁造さんだった。そこから時間をかけて弁造さんの〝生きること〟に触れていくことになるのだが、なぜ、僕は「他者」にこだわったのだろうか。あの頃、漠然と胸の中にあったのは、人は自分の人生しか生きられないという絶対の事実だった。僕はそのことを疑うこともなく、今とこれからを生きるうえでの約束のようなものとして感じていた。でも、心の奥底では自分以外の人生を知りたいと願っていた。自分ではない誰かの人生を満たしている日々の時間に触れてみたいと思っていた、理由もなく。そして、他者にカメラを向け写真を撮ることを通じてそれが可能になるのではないかと、次第に思いを募らせていった。その思いの先に立とうとしてくれたのが弁造さんだった。

 

P88

 四季を通じて弁造さんの庭に通ったが、雪を除けば不思議と悪天候で苦労したという記憶がない。冷たい夏の雨や秋の深い霧、寒々とした春空など、北国特有の冷涼な気候には違いないが、弁造さんの庭に立つと、いつも季節々々の心地よい空気感に抱かれた。なかでも秋は僕にとって特別とも言える印象を残した。この感覚は初めて弁造さんの庭の秋を訪れたとき、僕のなかに生まれ、そして根付いた。色づいたメープルたちが鮮やかな青空に向かって、炎のように伸び上がる姿。それはもう圧倒的な秋の表情で、僕は初めて見るメープルの美しい秋の姿に、「これが、弁造さんの庭なのか」と目を瞠って驚いたのだった。

 ・・・

 弁造さんに植えられたこのメープルは、僕が通い始めたときにすでに四十歳ほどになっていた。その年月はそのまま弁造さんの庭づくりの歴史でもあり、存在そのものが弁造さんの大切な思い出でもあった。

 僕が初めて庭を訪れた時にも、弁造さんは最初に、並んで立つメープルの下に案内すると「どうじゃろう。立派に育っているじゃろう。これはわしが一番大切にしているサトウカエデって言うんじゃ」とまるで自慢の息子でも紹介するような感じだった。・・・

 弁造さんが自給自足の庭を計画していく際、最初に考えたのが食糧自給のバランスだった。水田は向かない土地なので水稲を育てることはできなかったが、穀物を麦や豆などで自給できると判断した。野菜は小さなハウスを使えば、真冬を除けば何とかなる。果物は果樹を育てればいいし、動物性タンパク質は池を掘って、タニシと鯉、鮒を放すことで最低限は賄えるはずだった。

「しかしな、砂糖をどうするか。その答えがなかなか出んかった」。今となっては砂糖なんてありふれたものだが、開墾生活や戦時中の暮らしで一番のご馳走は甘いものだった。当時の、甘いものに焦がれていた記憶は弁造さんのなかでも忘れがたく、砂糖の存在を無視することはできなかった。

「じゃから、どうしても庭から砂糖を作れるようにしたかった。もちろん、あんたも知っとると思うが、北海道には砂糖大根っちゅう選択もあるわな。わしらの父親たちが入植したこの地も、もともとは砂糖大根が栽培されとった土地じゃった。だから、どこかに砂糖大根を植えて砂糖を作るってことも考えられんこともない。でも、わしはな、それだけはやっちゃいかんって思っておった」

 ここから先は、弁造さんと過ごした時間のなかで繰り返し聞くことになる話だった。それは、この土地で自給自足をやろうと思った動機でもあったからだ。

「砂糖大根はな、とにかく地力を丸ごと奪ってしまうんじゃ。あれだけの大きなカブになるわけじゃろう。そりゃあ仕方ないわな。だから、開拓当時は砂糖大根を植えて、地力を枯らしたらその畑を捨てて、また新しい開墾地に移動することの繰り返しじゃった。わしらが十九歳のときに入植したこの土地は、まさに砂糖大根の〝作り枯らし〟じゃった。土には何の栄養もなくて、荒地の象徴であるレッドトップしか生えん。そんな土地でどれだけの苦労をすることになったか。あんたには想像できんじゃろう」。弁造さんはそう言うと、あんたにはもうひとつ想像できんことがある、と言った。

「それはな、北海道の森が作ってきた腐葉土の力じゃ。最初の開拓民が森を切り拓いて作った畑では二十年間、無肥料で作物を作れたというんじゃ。わしはそれを聞いたとき、これから作っていく自給自足の土地は、二十年間、無肥料で作物を作れるような土地に戻したいと思ったんじゃ。それが、こうして開墾生活を知る最後の世代の役割じゃないかと感じた。だから土をダメにする作物をもう一度植えることは考えられんかった」。そこで弁造さんが砂糖大根の代わりとして最初に思いついたのがミツバチだった。

「ミツバチを一群飼育すれば、結構な量の蜂蜜が採れることはわかっておった。しかしな、ここらは冬が長いじゃろう。結局、冬の間にミツバチの越冬食として大量のザラメをやらんといかん。そうなるとあべこべじゃ。蜂蜜を売ってミツバチのための砂糖を買わんといかんくなる。じゃからといって、さすがに沖縄のようにサトウキビを植える訳にもいかん。果て困ったと」。それでも弁造さんは砂糖を諦めることはできなかった。自給自足の庭で目指すのは、一家族が永続的に暮らせるような仕組みだったが、庭から得るのは生きていくための食料だけではよくないと考えていたからだった。

「自給自足が惨めではいかん。自給自足は喜びなんじゃ。だから、我慢した生活ではいかんのじゃ。今の現代文明の暮らしが行き詰って自給自足に戻ってきたときに、これをずっと続けていきたいと思えるような暮らし。そういうものをわしは作りたいんじゃ。それには楽しみを生み出すことが大切なんじゃ」

 これも弁造さんが繰り返し、繰り返し、話したことだった。だから、生きていくために必要な穀物などの主食のほかに美味しい果物、春の喜びを感じられる山菜など、楽しみになる作物を育てることも重要視していた。また、「自給自足の庭が労働の場だけになってもいかん。散歩して楽しいな、きれいじゃなって思えるような場所にせんといかん」と庭の景観にもこだわっていた。弁造さんにとって、〝砂糖を作る〟とは、自給自足の庭に込める精神性のようなものだったのかもしれない。

「それで、わしはいろいろと調べていったんじゃが、するとな、カナダにはメープルシロップっていうものがあって、ホットケーキやなんかに使うとたいそう甘くて美味しいってことを知ったんじゃ。しかも、シロップを出すだけじゃなく美しい紅葉を作る木になるって話じゃ。こんないい木はないぞって思ったさ。カナダの気候で育つんだから、ここでも必ず育ってくれるに違いないって、ひらめいたんじゃ」

 ・・・

 ・・・木がもう十分に成長し、シロップが採れるほどになっても一度も採ることはできなかった。

「あんた、種子から大切に育ててきたんじゃぞ。やっぱり愛情が湧かんといったら嘘じゃろう。・・・せっかく大きくなった木に穴を開けるのはどうも気が進まん。サトウカエデだって可愛い子供に穴を開けられるんだったらまだしも、ヨボヨボの年寄りが唾を飲み込みながら、砂糖じゃ、砂糖じゃって穴を開け始めたら、さすがに嫌気がさすじゃろう。じゃからといって、木は歩いて逃げられんからな」と弁造さんならではのユーモアでシロップを採取しない理由を語った。

 ・・・

 ・・・弁造さんは結局、一度も幹に穴を開けることなく逝ってしまい、シロップを採るという念願を果たすことはなかった。・・・今となっては、これもまた弁造さんだと僕は思う。弁造さんの人生を改めて振り返ると、思い通りにいかなかったことばかりだが、及ばないこと、得られないことのなかにある不思議な豊かさを僕に教えてくれたのも弁造さんだからだ。