画家になった

ぼくなりの遊び方、行き方: 横尾忠則自伝 (ちくま文庫)

 ピカソの絵を見て画家になることにした、という話は読んだことがありましたが、ああこういう感じだったんだ…と思いました。

 

P336

 人間の運命なんて全くわからないものだということがこの旅行によって証明された。ニューヨーク近代美術館の入口を這入った時はまだぼくはグラフィックデザイナーであったが、その二時間後出口に立った時は、例は悪いがまるで豚がハムの加工商品になって工場の出口から出てくるようにぼくは「画家」になっていたのである。その決定は二時間という短時間の中でなされたわけだが、今でも疑うのは本当に自分が決定したのかどうかということである。・・・

 ・・・なぜ過去に何度も見て知っているはずのピカソが、この瞬間ぼくを襲撃しなければならなかったのだろうか。・・・

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 ぼくは・・・鑑賞というより儀式か瞑想に近い感覚で、次第にピカソの芸術と人生に吸収されるように意識の統合が起こり始めていた。・・・ただ彼が自己の想いや感情に忠実に従っているというその無垢な正直さに、ぼくは自分の欺瞞性というか心のガードの堅さをいやというほど見せつけられ、同時に、いいようのない解放感に恍惚としてしまったのである。まるで禅の内観体験である。自由な表現が鑑賞者をここまで解き放つピカソの芸術とは一体何者なのだろう。ぼくは別にピカソのようなスタイルの絵を描こうとは思わないが、でき得ればピカソのような生き方、つまり創造と人生の一体化が真に可能ならそれに従いたいと思ったのである。こんないい方をするとまるで求道者のように聞こえるかも知れないが、いい方を換えれば行為自体を目的とする遊びこそが人生と芸術のなすべきことではないかと直観したのだった。

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 世間ではある種の不評を買っている彼の晩年の作品にぼくはピカソの自然体ともいえる我儘がそのまま表出しているように思えた。まるで呼吸するように何の躊躇もなくただ描きたいように描いている。・・・ぼくは・・・その解放された感情表現に宇宙的な愛のようなものを感じたのである。

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 美術館の出口に立った時、ぼくは決断してしまっていた。

「画家になろう」