正しさには大した意味はない

日本人は「やめる練習」がたりてない (集英社新書)

 この考え方も、大事だなと思いました。

 

P173

 日本にいたときには、物事が「正しいか」「正しくないか」がとても重要だった。だから、間違った人を見ていると何となく「許せない」と思っていた。何かにつけて、自分の狭い常識に当てはめては、「でも私の方が正しい」と考えていた。正しくない人を見てはイライラし、「直してあげなければ」と無駄な正義感に燃えていた。今思うと、いつも戦闘状態だった。

 マレーシアでさまざまな人種と付き合ううちに、「正しさ」には大した意味はないと気がついた。というより、正しさは、人種や地域、時代によって動く曖昧なものだと気づいた。

 マレーシア人の仕事ぶりはゆっくりだ、と怒る日本人がいる。そう言うと、あるマレー人は「マレーシアに来てビジネスをしたいと頼んできたのは、あなたたちでしょ?ならば、マレーシアのペースに合わせたら?」と言っていた。それを聞いて私も「速いこと=正しい」と思い込んでいることに気づいた。そこに気がつくと、レジの人がおしゃべりしながらゆっくり働いていても、イライラしなくなる。

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 家族旅行に行くので、と運動会や授業に参加しない家族がいる。マレーシアでは家族の行事を何より優先させる人が多いし、お母さんが幼い子供を預けて、女友達と海外旅行するのも当たり前。いろんな人がいるから、中には「学校を休むのは良くない」「子供を置いて行くのはけしからん」と思っている人もいる。

 ムスリムには奥さんが二人いる人がいる。世界には自分の常識では計れない人たちがたくさん住んでいて、それぞれから教わることもあるなーと思うようになったら、ぐっと楽になり、ストレスは減る。だから、日本でもお互いの常識を尊重して、世界を増やせば、私たちも生きやすくなる。

 一方で、「閉鎖的な田舎」のように、「自分たちの常識を守りたい」人たちの自由もある。そういう人はコミュニティを守ってキッチリ生きていけば良い。何も統一する必要はなくて、「あーそういう世界もあるのね。理解できないけど」くらいで良い。無理に関わって統一しようとするからケンカになるのだ。

 この同じ空間で「世界がいっぱい増える」感じ。それを認めて許容していく態度が多様性に対応するということなのだと思う。

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 結局のところ、自分のことは自分しかわからない。他人の目を気にせずに、「人それぞれ自分がハッピーになる」道を行くしかない。同じ日本人にもいろいろいる。私はみんながみんな、グローバルになる必要はないと思っている。