エンパシー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー (新潮文庫)

 親子でこんなやりとりができるってすばらしいなと思いました。

 

P121

 ・・・通りを歩いていると、銀行のキャッシュマシーンの脇にホームレスの男性が座っていた。

「ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ」

 毛布を肩から羽織ったその男性は、わたしと息子に視線を合わせてにやにやしながらしつこく何度もそう言っている。わたしは彼から目を逸らし、完全無視をきめて前を通り過ぎた。昼間っからラリってるのか濁った目つきで、ずいぶん失礼な態度だな。いくらホームレスであろうとも失礼なものは失礼なので、そこに温情を侵入させる余地などないぞ、と思っていると息子が言った。

「中国人じゃないのにね」

「まあ、そこは重要ポイントではないけどね」

 わたしが答えると息子が呟いた。

「すごい久しぶりにあの言葉を聞いた」

「ニーハオ、ニーハオ?」

「うん。友だちと一緒に外出しているときは、言われたことないから」

 お。と思った。これは、ついにあれが始まったということだろうか。よく在英日本人の、欧州人配偶者との間に子どもを持つ人々が言う、「思春期になると子どもが日本人の親から距離を取りたがる」現象。むかし、ロンドンの日系企業に勤めていたとき、現地社員の日本人女性たちがよくそういう話をしているのを耳にした。母親が日本人であることを隠したがる子どもとか、「訛ってて恥ずかしいから人前で英語をしゃべるな」と子どもに言われてしまった母親の話とか。

 ついにわが家にもそのときがきたのだろうか、と身構えていると息子が言った。

「さっき起きたことについては、考え方が二つあるよね。まず一つ目は、友だちと一緒にいるときは僕は東洋人には見えないんだという考え方。実際、僕はラテン系と間違えられることもあるしね。でも、母ちゃんと一緒にいると、やっぱ親子だから、東洋人に見えるということ」

「うん」

 息子がなんか理路整然と語りはじめてしまったので、ついわたしは頷く。

「そして二つ目、それは、友だちと一緒にいようが母ちゃんと一緒だろうが僕は東洋人に見えるんだという考え方。だけど、友だちといるときは男ばっかりだし、体の大きな子もいるから、失礼なことを言うと殴られたりする危険性もある。だから誰も僕に差別的なことを言わない。つまり、母ちゃんと歩いているときは、女と子どもという弱者コンビだからバカにしやすい。もし、東洋人の成人男性が2人で歩いていたとしたら、あのホームレスはあんなことを言ったかな」

「言わなかったんじゃないかな、きっと」

 移民と英国人、男と女、大人と子ども。様々な軸に分解して語っているのか、とちょっと感心していると息子が言った。

「でも、実は三つ目の考え方もある。『ニーハオ』ってのは英語で言えば『ハロー』のことでしょ。だから、中国人には中国語で挨拶すればフレンドリーだなって思われてお金を貰えるんじゃないかというビジネス的な理由から彼は『ニーハオ』と言ったのかもしれない」

「ええっ。それは考えつかなかったな」

 わたしは思わず声量をあげた。

「それは違うと思うよ。そういう言い方じゃなかったもん。嫌な感じでにやにやしていたし、そんな親しみは感じられなかった」

「でも、決めつけないでいろんな考え方をしてみることが大事なんだって。シティズンシップ・エデュケーションの先生が言ってた。それがエンパシーへの第一歩だって」

「……」

「そう言えば、僕、いまでも覚えているんだけど」

 と言ってわたしを見上げた息子のにやけた目が三日月形になっていた。

「むかし、やっぱり『ニーハオ』って言われたときに、母ちゃんブチ切れて『私は日本人です』って言って、腰に手を当ててぶわーっと日本語で相手にまくし立てたことがあった。みんな立ち止まって笑ってたけど、あれ、クールだった」

「そんなことあったっけ。よっぽど虫の居所が悪かったんだろうね」

「あれは笑えるからいいと思うよ、母ちゃんはあの感じ、忘れないほうがいい」

「……」

 なんで11歳の子どもに説教されてるんだろうと思いながら、わたしは息子と並んで昼下がりの街をバス停に向かって歩いて行った。