吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる

吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる (朝日文庫)

 なるほどそうだなぁと思ったり、私はどうだろうと思ったり、いろいろ思いが巡る本でした。

 

P16

 ・・・深く考えると私には「友だち」という存在が一人もいません。ただ「仲間」というものがいるだけで、それは肉体的に近くない人たちということもありうるのです。

 例えば私は事務所のスタッフを、私の姪っ子のように愛しているし、家族以上に同じ時間を過ごしたり同じ部屋に泊まったりしているけど、役割というものがあると思っています。例えばスタッフのお家に不幸があったときに、私が駆けつけて一晩中手を握るとか、ご飯を作ってあげるとか、そういうことはしない。でもそれを超えたいと思ってしまったときに、それは愛ではなくなってしまう。不自然なことを始めたときに、エゴになってしまって、相手のためではなくなってしまう。

 ・・・

 私が小学生のときに、心底から仲のよい友だちがいました。クラスが変わってしまったのですが、仲がいいので当然休み時間とかに会いに行く。でもそのときの先生に「いろんな人と仲良くさせるためにクラス替えがあるんだから、よそのクラスに親友を作るのはいけません」と注意されました。もちろん私はその注意を無視して会い続けましたが。

 私が思う「仲間と友だちの差」って、こういうことかなと。違うクラスになったその子は「仲間」だった。離れていても、関係が変わらない。でも私にとってのクラスメイトは、授業や行事を一緒にやって、お昼も一緒に食べることによってできる「横並びの友だち」。いつか仲間になれるかもしれないけれど、今は違う。だけど、仲間だったらクラス替えくらいで心の距離感は変わらない。それを会社でたとえると、「お昼を一緒に食べたり、会社帰りに飲みに行くこともあった同僚だけど、転職したら意外と連絡しない」みたいな関係は仲間ではなくて友だち。転職しても、特に話がある訳じゃないけど顔が見たくて連絡しちゃう人というのは「仲間」です。桜井章一さんもおっしゃっていました。「友だち」はいらなけれど「仲間」は大切だって。

 

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 ・・・いつもビックリするのですがヨーロッパの人たちって、「これ、どうぞ」とプレゼントをもらうと、「ごめん、私これ使わないからお返しします。ほかの誰かに差し上げて。お気持ちだけありがとう」と言って、ていねいに返却したりします。私がされた訳じゃないのですが、そういう場面を何度か見ることがあって、いつもそのハッキリした「いらないものは、いらない」という対応に驚きます。

 もちろん、なんでも受け取ってくれる方もいますし、返却する人もその際に言葉を尽くしてはいるので、そんなに失礼なことではないんだなと認識していますが、日本人にはなかなかできないことです。

「私には考えがあって、皮製品はボイコットしているので使うことができないんです、ごめんなさい」などの説明をきちんとしつつも、上司だろうとなんだろうと受け取らないという選択肢があることは、日本人の私としてはすごく衝撃です。そのハッキリしていることがいい場合もあるし悪い場合もあるでしょうけど。