パパの電話を待ちながら

パパの電話を待ちながら (講談社文庫)

 内田洋子さんが訳されていたので、この本の存在を知りました。

 どんな内容か、訳者あとがきから引用します。そして短いお話も。

 

P199

 たいていの学校の図書館には、ロダーリの本がある。

 小学校で読み書きを覚えて、初めて自力で一冊読破する本。

 時が経つとともに細かな筋は忘れてしまっても、始めて読んだときの感動は深く心に残り、その後の読書人生の起点となる本。

 ロダーリは、イタリアの子どもにそういう本を数多く残した作家である。その作品を読むとき、イタリアの魅力の秘密や創造力の源をかいま見るような思いで、わくわくする。

 ロダーリは、北イタリアのオルタ湖畔に生まれた。九歳のときに父親が病死。父親は無一文から努力で店まで開いた、実に働き者のパン職人だった。

 母と兄弟二人と遺されて、学業優秀だったロダーリは十七歳にして早々、小学校の教師となる。

 フランスのシュールレアリスム文学が好きで、国語の授業では子どもたちにあえて脈絡のないことばを選ばせ創作話を書かせるなどして、人気の先生だった。

 教職を経て後に共産主義系の新聞記者となり、子どもを対象としたコラムを担当することになった。いくら子どもが読者とはいえ、政治色の強い紙面である。そのうちロダーリには、読者の子どもからもその親からも、当時の世相を反映するようなテーマで話を書いて、という依頼が届くようになった。

 腕まくりして、一生懸命に働く。

 戦争は、ひどく愚劣なこと。

 未来を、たとえば宇宙を見つめよう。

 間違いや、人と違うということをとがめない。

 ロダーリはこうした思いを組み込みながら、幼い子どもにもわかるやさしい語彙で、短い話を次々と作り上げていったのである。

 

P148 ひとりだけれど七人

 ある男の子と知り合いになりました。ひとりの男の子で、七人いました。

 ローマに住んでいたのはパオロという名前で、父親は市電の運転手でした。

 と同時に、パリにも住んでいました。そこではジャンという名前で、父親は自動車工場で働いていました。

 と同時に、ベルリンにも住んでいて、名前はクルトといい、父親はヴィオラの教師でした。

 と同時に、モスクワにも住んでいました。ガガーリンと同じ名前のユーリといい、父親は左官業をいとなんでおり、彼は数学を勉強していました。

 と同時に、ニューヨークにも住んでいたのです。ジミーという名前で、父親はガソリンスタンドで働いていました。

 何人まで話しましたっけ?五人ですね。あと二人足りない。

 もうひとりはチウ。上海暮らしで父親は漁師。最後のひとりはパブロといい、ブエノスアイレスに住んでいて、父親は塗装工でした。

 パオロ、ジャン、クルト、ユーリ、ジミー、チウ、そしてパブロという七人でしたが、でもみんなひとりの男の子で、八歳で読み書きがもうできて、両手放しで自転車に乗れる子でした。

 パオロは黒髪でジャンは金髪。クルトは栗色でしたが、みな同じひとりの男の子でした。ユーリの肌は白く、チウは黄色、でも同じひとりの男の子。パブロはスペイン語の映画を見に行き、ジミーは英語の映画を見ていました。でも同じひとりの男の子で、同じように笑っていました。

 時が経って、七人の男の子たちはみんな成長し、大人になりましたが、決して互いに戦争はできないでしょう。だって、七人はみんな、ひとりの人間だからです。