養老院より大学院

養老院より大学院 (講談社文庫)

 内館牧子さんのエッセイ、興味深く読みました。

 大相撲の土俵の女人禁制を守るべきだと考えつつ、その主張をするためには大相撲をもっと勉強せねばと、大学院受験を思い立ったそうです。

 この「性分」のお話は、ですよね~と共感しました。

(単行本の方を読んだので、↑の文庫とはページ数が違います)

 

P144

 大学院を修了するまでの三年間に、

「仙台の大学院に行くなんて、内館さんだからできたことだ」

 と、老若男女からもううんざりするほど言われた。私はそれに対して、敢えてきちんと返事をしなかった。たいていは、

「そんなことないですよ。その気になれば誰だってできますよ」

 とだけ答えてきた。「誰だってできる」と本心から思っているが、説明は長くなるし、面倒だし、いつかきちんと書こうと思い、話題を変えてきた。

「内館さんだからできたことだ」

 に関し、まったくその通りな部分もある。それは次の五点である。

 一点は、私の入学当時七十七歳だった母が、八十一歳の現在まで非常に元気なことである。・・・

 二点目は秘書の児玉綾が、私の「休筆する」と言う言葉にも、「仙台に住む」という言葉にも、全然動じなかったことである。・・・

 もう一点は、私がフリーランサーであったため、時間が取りやすかったことだ。・・・

 四点目は、幸か不幸か私が独身だということである。つまり、誰にも気兼ねすることなく、何でも自分で決定が下せる。・・・

 五点目は、金銭的自由である。

 独身の私は、自分のお金は自分の判断で好きなように使える状況にあった。さらに「人生、出たとこ勝負」の性分もあり、老後に蓄える気がまったくなかった。

 以上の五点は、私の境遇におけるメリットであり、そのメリットを最大限に生かしたという意味では、

「仙台の大学院に行くなんて、内館さんだからできたことだ」

 との声を否定はしない。

 だが、これらのメリットに関しては、本当に「性分」の領域だと考えている。自分の境遇をメリットだと思う性分か、デメリットだと思う性分かということである。デメリットだと思う性分だと、社会人学生になるという決断はなかなかつかないかもしれない。

 たとえば、独身の私は夫や子供と生きる幸せをまったく知らず、孫を抱く喜びも一生知らずに終わる。ところが、夫も子供も孫もいない幸せ、恩恵というものも、実は確かに存在する。これを大声で言うと、必ず「強がり」とされるため、私はほとんど口にしたことはないが、「独り者」の幸せ、恩恵というものは、実生活において決して小さくはない。

 ただ、そう思えるかどうかは、これも性分の域だろう。もしも、

「独身だから老後は淋しくて、つらいに決まっているの。だからお金をためなくちゃ。大学院にお金をつかうより、養老院に備えなきゃ。ああ、子供や孫に囲まれて死ねる人が羨ましい。私なんか病気になったって、見舞いに来る家族がいないのよ。淋しい人生よね……。五十代の今だって、体のアッチが痛いし、コッチが悪いし……。七十や八十になった時を思うと、目の前が暗くなるわ。心配してくれる夫や子供がいれば、どれほど支えになるか……。ああ、孫というものを抱いてみたかったわ……」

 と、こっちに行く人には、社会人学生になることをお勧めしない。・・・

 また、フリーランスという立場にしても、これをデメリットと受け取る性分の人もいる。

「フリーなんて、古い言葉で言えば『日雇い』に近いわ。・・・私の母親だって、今は元気でも、現実には高齢なのよ。いつ何があるかわからないし、・・・」

 と、こっちに行く人も、社会人学生になることは無理である。私がこういう性分なら、「高齢の母」と「フリーランス」と「独身」は、メリットどころか「三重苦」だ。とても大学院どころではなかったろう。

 人それぞれの人生に、人それぞれのメリットが必ずある。だが、メリットとデメリットは表裏一体。表メリットを見てしまう性分も正しいし、裏デメリットを見てしまう性分も正しい。・・・