贈りものとお返し

大人の友情 (朝日文庫 か 23-8)

 興味深いお話でした。

 

P253

 贈りものに対して「お返し」をする。これも相当に心を使わねばならない。年輩の人たちは、何かを贈ってすぐそれ相応のお返しをもらうと、「ごきんとうなことで」と言いながら、むしろあまり嬉しくない表情をしたものである。

 ・・・贈りものに対して「ごきんとう」に返してくるのは、そこにプラスマイナスゼロ、となって、むしろ、二人の間に何の関係も残らないということになる。つまり、友情など入りこむ余地がないわけである。

 贈りものをもらって、それに感謝しつつ、「物」で返さないのは、その分だけ「心」の関係を維持することになる。・・・

 確かブータンだったかと思うが、日本人がブータンの友人に相当な贈りものをしたが、あまり感謝の言葉もないし、日本人が何となく期待していた相手からの贈りものもない。この地では、もらいっぱなしになるのかと思っていたが、十七年経って、その相手から立派な贈りものを受け取り、以前の礼を言われて驚いてしまった。わけを聞くと、この地ではすぐに物を返すのは失礼で、友情がほんとうに確かになって、物によって関係が乱されないようになるまで、心の関係を保つことが大切だと聞かされて、感心したとのこと。それにしても十七年というのは凄いと私も感心してしまった。実はこれはどこかで読んだ話で、いろいろ探してみたが原文が見つからず、私の記憶違いがあるかもしれないが、ご寛容をお願いする。

 贈りものに関しての私の忘れ難い体験を紹介しよう。アメリカに留学中に、ユング派の教育分析を受けた。分析家になるためには自分も分析を受けねばならない。ところが、分析料は高く、当時で一時間二十五ドルであった(私がフルブライト留学生として受けていた給付は一カ月百七十五ドル)。留学生だから安くしようということで、一回一ドルということになった。実に思い切ったことで私は大変感謝したが、日本人だから何かの「お返し」を考える。

 クリスマスのときに、日本のものをプレゼントとして持っていった。分析家のシュピーゲルマン博士は、分析は「契約関係」だから贈りものは受け取らない、と言う。分析というのは厳しい人間関係だから、両者が変に心遣いをしたり、気がねをしたりせぬように・・・料金以外のものは一切受け取らない、と考える。

 ・・・私は引き下がらずに抗弁した。・・・日本には歳暮、中元という風習があって、常日頃世話になっている人には感謝の心をこめて贈りものをする。・・・「感謝の心」を表現することが大事なのである。自分は料金を特別に安くしてもらっているので心から感謝しているが、その「代金」などという意味ではなく、基本は心と心の問題である。と熱弁を振るっているうちに、ふと気がついて、「日本人は自分の心についてこんなに喋るなどということはしないものだが」と言うと、彼はにっこり笑って、「お前は日本の慣習を破ってよく喋り、気持がよくわかったので、自分もアメリカの規則を破って、この贈りものを受け取ることにする」と受け取ってくれた。

 彼は私の料金を安くする、私はお礼に何かを贈るという、二人の間の物の交換ではなく、深い心の触れあいの象徴として、贈りものが動いているという感じがして、実に印象深かった。本来の贈りものというのは、そのようなものかもしれない。人間を超えた存在からの授かりものを、人を通じて人に渡している、と考えるといいのであろう。