カオス

心はすべて数学である (文春e-book)

 何が書いてあるのかなんとなくしかわからないのですが(;^_^A、大事な気がしたところです。

 

P122

 カオスという数学的構造が心を表現している、そのリアリティを与えてくれる実験結果があります。米国の神経科学者であるウォルター・ジャクソン・フリーマンと、その弟子たちによるウサギやラットの匂いの情報処理の実験過程で、「動物はカオスが生まれているときのみ記憶をしている」ということが明らかになりました。

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 カオスはまるで心のようだ。それを最初に感じたのは荘子の「混沌」の話でした。

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 では荘子においてカオスはどう描かれているのか。「混沌」とは、こういう話です。

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 昔、三つの国があって、それぞれに王様がいました。中央の王様は「混沌」、北と南の王様はそれぞれ「忽」と「儵」といいました。「儵」というのは人間の素早さ、「忽」とは人間のあざとさを表現しているのですが、「混沌」には最初は定義がありません。ところが、あるとき混沌が「儵」と「忽」を招いて混沌の地でパーティーを開くんですね。大変楽しかったので、「儵」と「忽」は相談してどんなお返しをしたらいいだろうと話したところ、「混沌の顔には普通人間にある七つの穴がない。目、耳、口、鼻といった穴がない。それでは不便だろう。だから一日に一個、混沌の身体に穴をあけてあげましょう」と。そうして毎日一つずつ穴を開けていった。すると七日目にして混沌は死んでしまった―。

 つまり、混沌に目鼻をつけると混沌の本性がなくなる、ということを意味しているお話です。そしてこの感覚は、我々が数学の対象にしているカオスとピッタリなのです。

 カオスとは可算無限個の周期解(周期的な運動を表す)、ただし不安定なものと、非可算無限個の非周期解(周期を一切持たない非周期運動)をあわせもっている。さらに一本の軌道で、これがある領域で常に自分自身の近くに戻ってくるような稠密軌道がある。この三つがカオスの特徴です。カオスの解を見ようとしても見えない。カオスの本当の顔がどこにあるか、有限の計算や観測をしただけでは見えない。そこから想像することしかできず、分析しようとすると何かが失われていく。だから数学的な概念としては定式化できるのですが、目の前で見ようとすると実際には見えない。まさに「混沌は死んだ」という形になってしまう。こういう性質をもったものがカオスなので、荘子の「混沌」とぴたりと一致しているのではないかと、象徴的なエピソードとして読んだわけです。

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 ・・・カオスは、時間の前後関係がそもそも意味をもちません。時間の前に行っても後ろに行っても不確定性が出る。時間の無限の未来で、その運動を始めたはずの初期の状態が決まってくる場合すらあるのです(数学的には生成系と呼ばれるものです)。ということは、因果関係はないということです。そこでは原因と結果という考え方そのものが意味を失ってしまう。ニュートン方程式のような決定論的な運動方程式では初期条件を与えることで未来が予測できるわけですが、ニュートン方程式の解がカオスの場合、時間の秩序というものがなく、状態変化を繰り返すうちに最初は何だったのかが次第に分かってくるところがある。つまり、時間の前後が逆転しているといってもいいかもしれません。

 この意味で因果性は消滅しています。・・・しかし、カオスのネットワークの中には別の因果関係が存在しています。それが情報の流れであり、カオスの計算論の本質的な部分です。これがすなわち、脳や心とパラレルに考えられるところなのですが、外部からカオスの情報を与えることで、情報がカオスネットワークの中でどのように変化していくかを因果的に見ることができるのです。