時間 脳 記憶

心はすべて数学である (文春e-book)

 この辺りも大事な気がした(;^_^Aところです。

 

P147

 私は長年趣味でクロスカントリースキーをやっていて、すると足裏の感覚というものはものすごく鋭敏なのですね。そして競技の最中はそれをいったん忘れなければいけない。忘れるとうまくピタッとはまって、急カーブもタタン、と神がかった感じで動けたりするわけです。うまく足の裏に神経を集中させるというか、集中させるけれども集中させないようにする。するととても気持ちよく「あそこに意識が流れていった」という感覚があります。一流選手であればなおさら、そういった身体感覚があるでしょう。このような身体感覚を磨くのがまさにトレーニングです。・・・

 つまり私たちは、大脳で大事な情報処理をするのですが、いったん学習したら、それを大脳には置いておかないで、もっと素早く反応できるように、大脳の処理を宙づりにして下へ下へとおろしていく、つまり身体化する。

 このように言わば心を宙づりにすることが、何もかも厳格に決めず直観力を働かせることのできる人間の知性なのではないか、と思われるのです。

 

P160

 ・・・集合的なマインドというものは、結局のところ他者からきている。マインドが自己だというのはひとつの幻想です。心は一個一個の脳という器官を通って出てくるものであって、自分の身体を通ってくるために、「私の心だ」という幻想が生じるわけだけれども、もともと意識とは外から、他者からきているのだとすると、それは閉じた形では書けないだろうとも思います。そしてどちらにしろ、意識を式で「書けた!」というのは、私はインチキだと思うのです。

 

P179

 ギリシャではクロノスとカイロスという二つの時間概念があったといいます。クロノスはクロックのもとになった言葉で、いわゆる空間化された時間です。それに対してカイロスとは瞬間、日本語で言えば時刻とでもいうもの、つまりその瞬間、瞬間を感じなければならない時間です。古代ギリシャの人たちは、そういう時間感覚と感性を持っていたから、この二つの概念を使い分けたのでしょう。時間だけでなく、時刻というものをも感覚的に捉えないと、生命的な時間は記述できない、そう考えたのでしょう。

 

P180

 エピソード記憶とは、時間や場所や感情をともなった記憶のことです。意識的な経験の時間変化を、私たちはエピソードとして記憶している。時間的にも空間的にも変化があるものを、では私たちはどうやって記憶しているのか。・・・

 ・・・エピソード記憶とは、ある種の時系列だといえます。記憶はイベントの列から成り立っているんだけれども、時間をともなっているので時系列というわけです。つまり、数学的にAというイベントが1番目、Bというイベントが2番目、Cというイベントが3番目といった順序づけがあるだけでなく、実際にそれが物理的な時間のなかで進行している。ただし、それらの間に因果性があまりない、という特徴があります。

 時間をどのように脳という領域に空間化して記憶させているのか?その前に、この因果性がないということについて触れたいと思います。日常世界で起きる現象には、それほど因果性があるわけではないのです。人間社会で起こることには実はほとんど因果性はないといっても過言ではありません。実際は因果性がないのにさもあるように仮定して、いろんなことをやっているわけです。

 例えば、ある街角を歩いていたら赤ん坊の泣き声が聞こえた(A)。角を曲がったら、塀に車がぶつかってバンと大きな音がして、事故が起きた(B)、という事象があったとします。この二つの事象自体には因果関係はありません。

 しかし、このとき、往々にして、自動車事故があった大きな音がした(B)から赤ん坊が泣いた(A)、というように前頭葉は勝手に因果関係を作ってしまうんですね。前頭葉は因果関係が好きなようで因果関係を作りたがる。この前頭葉が作る因果関係によって記憶が定着するまでに記憶は書き換えられてしまう。・・・

 

P192

 ・・・同じ経験の記憶が人によって違うのは、記憶の違いではなく、物語を作る役目をもち、思考・推論の主役である前頭葉の構造の違いによるのです。異なる前頭葉の働きが共通の記憶の書き換え方を変えてしまうのです。・・・