この星で生きる理由

この星で生きる理由 ―過去は新しく、未来はなつかしく―

 読んでいると、何か美しいものに触れて、気持ちが清々しくなるような感覚になりました。

 

P32

 実は、今から三千年以上も昔に書かれたインド最古の文献、『リグ・ヴェーダ』第十巻、一二九歌「宇宙開闢の歌」は「そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき」という衝撃的な書き出しからはじまりますが、さらに、「そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき」と続き、その後に、「かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)」と書かれています。原初には呼吸があり、そこから風が派生したというのです。まるで、現代宇宙論でいうところの「量子論的無の〝ゆらぎ〟」が呼吸だとすれば、風がビッグバンに相当するといってみたくなります。自然風の強弱のゆらぎ、星のまたたき(光度変化、宇宙から降り注ぐ放射線強度のゆらぎ、そして私たちがリラックスしているときの呼吸数や心拍数のゆらぎが、同じ数学的性質を持っているということも、私たち自身、風から生まれたこの宇宙の一部分であることの証であるといってもよいでしょう。

 

P39

 ・・・人々は大晦日に・・・除夜の鐘を108回突いて新年を迎える・・・

 ・・・108という数は、仏教の世界でいうところの煩悩の数だとされていて、・・・そして、煩悩の数が108ということにも諸説あって、・・・いちばんもっともらしい説明は、仏教の煩悩観にあるようです。つまり、煩悩を起こす基となる人間の感覚には、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つ(六根)があり、それぞれの感じ方には、「好い」、「悪い」、「中庸」の三つ、さらに「浄(清らか)」と「染(汚い)」の二つ、そして、前世、今世、来世の三つに及ぶと考えれば、6×3×2×3=108だということになります。いずれにしても、心に深く染み入る鐘の音には、すべてを浄化するような不思議な力を感じますね。恐らく、鐘の音に含まれる自然倍音のうねりが、脳の深いところと呼応するからでしょう。

 

P46

 ・・・私たち地球人類は、みずからの存続のために、何をめざしていったらいいのでしょうか。

 実は、今から約二千五百年前に、この問いかけに対して言及していた人物がいました。仏陀です。それは宗教の教義ではなく、現代科学の成果として広く知られている世界像そのものについての洞察でした。仏陀はこの宇宙が定常的存在ではなく、常に変化し続けるものであり、しかも、すべては相互依存的存在だと考えていました。この考え方は、今から一三八億年の遠い昔に、限りなく熱くまばゆい一粒の光として生まれた宇宙が、枝分かれしながら進化し、すべての存在は、それらを構成する基本粒子の複合集散であるとする現代宇宙論を先取りしています。そこで、仏陀は、この世界観の理解こそがすべての苦を克服され、平和な世界を創出させる智恵だと説きました。しかし、その実践は一般の人には難しく、後に、大乗仏教を率いた先達たちが、仏陀の考え方を基本に据えたうえで、私たちが現実だと感じているすべてのものには実体がなく、そのことの理解が一切の苦からの解放と心の平安に繋がるとしたのです。そして、この考え方のエッセンスを二百六十二文字の呪文形式にまとめたものが般若心経でした。

 

P52

 世のなかには、知っているようで知らないものがたくさんあります。その典型と言ってもよいのが、〝時間〟ではないでしょうか。・・・

 時間の不思議について最初に論じたのは、二世紀のインドの哲学者、ナーガルジュナ(龍樹)だといわれていますが、その後、四世紀から五世紀の神学者であり古代キリスト教の教父、アウグスティヌス、さらに、日本では鎌倉時代初期の禅僧、道元なども時間について論じています。この三人は、時代も宗教も異なりますが、それぞれが書き残した時間論には共通している論点があります。

「過去は、過ぎ去ったものであるから存在しない。未来は、まだ来ていないから存在しない。ならば、過去でもなく、未来でもない時間を現在であるとしたとき、もしそれが過ぎ去るのであれば、存在しないことになる。したがって、現在は過ぎ去ることのない唯一の時間であって、過ぎ去らないが故に永遠である」という論法をとったのです。

 それに加えて、道元は「過去も未来も、すべてが現在のなかに含まれている」と喝破したのです。・・・

 それでは、ここで、・・・物理の時間について考えてみましょう。ボールを地上から真上に投げたとします。最初は、勢いよく上に向かって飛んでいきますが、徐々にスピードを緩め、最高点に達したところで一瞬停止します。そして、今度は下に向かって落ちはじめます。最初はゆっくりと、そして次第にスピードを速めながら落下し、地上に達したときのスピードは、投げ上げたときのスピードとまったく同じです。この様子を撮影して逆回しで見ると、ボールの動きはまったく同じで区別がつきません。いいかえれば、物理学、特に物体の運動を記述する力学の世界での時間には、絶対的な過去、未来の区別はないのです。どうやら、私たちが感じている時間とは、心のなかで作られる幻想のようです。けれど、生き物には誕生と死があり、私たちも、置かれている状況によって、時間の進み方を早く感じたり遅く感じたりします。不思議ですね。謎は深まるばかりです。