映画「桜色の風が咲く」が紹介されていて興味を持ち、その元になった本を読みました。
我が子を思うお母さんの気持ちが、言葉を超えて伝わってくるようでした。
こちらは、指点字が偶然生まれた場面です。
P205
私と智とは、お互いに日々いらいらをつのらせていた。智はもちろん、聴力の低下によるストレスがたまっていただろうし、私にもそのストレスは伝染する。前述の夫の新たなストレスもあり、それも私に伝染する。
しかも、智の聴力の低下はそのまま会話が難しくなることを意味するので、私と智のコミュニケーションがうまくいかないことによるいらいらも重なる……。何重ものストレスがそれぞれに蓄積していた。こうした悪条件の中で、偶然にも「指点字」は誕生したのだった。
それが、いつのことだったのか、いまだにはっきりしない。どういうわけか、私も智も、この肝心の瞬間を日記や手紙に書き残していないからだ。
・・・
日付ははっきりとはしないが、その場面は今も鮮明に覚えている。私が台所で茶碗や食器を洗っていると、智が何か文句を言いながら台所に入ってきた。その文句もあまり覚えていないのだが、「まだ準備できとらんのか。はよせな、病院に遅れるやないか」というようなことだったろうか。
本当に偉そうな物言いをする息子である。私だってそんなことはわかっていて、出かける準備のために、流し台を片付けているのだ。何か言い返してやりたいが、もう少々の大声で返事をしても智には聞こえない。台所には点字のタイプライターも紙もない。
そこで私はふと思いついた。点字のタイプライターを打つ要領で智の指をたたいてみてはどうだろう。智の両手をとった。そして、手の甲を上にして前に出させた両手の人差し指から薬指までの六本の指先を点字タイプライターの六つのキーに見立てることにした。
まず、六つの点に対応させて、智の指をポンポンとたたいてみた。智の左手の人差し指、中指、薬指。右手の人差し指、中指、薬指。それが点字の1から6の点だ。
智は黙っている。私が何をするのかと不思議に思っているのだろうか。二人は向かい合っているので、実はこの方式だと智にとっては左右逆の組み合わせになるのだけれど、そのときにそんなことを考える余裕は私にはない。
私は、その後ゆっくり、はっきりと智の指に点字の組み合わせでタッチした。
「さ と し わ か る か」
智は即座に、「ああ、分かるで」と答えた。それまで文句を言っていた智がにこりとした。通じた!声を使わなくても言葉が智に通じた!私は有頂天になった。
ヘレン・ケラーがサリヴァン先生との出会いをきっかけに「ウォーター」という言葉を学ぶ感動的な場面がある。映画や演劇で有名なあのシーンだ。庭にある井戸から汲み上げた水がきっかけだったという。私と智の場合、場所は狭い台所だし、きっかけは生意気な息子がうるさいので何とか言い返してやろうという気持ちからだったからだいぶ質が違う。
それでも、この瞬間は「ウォーター」にも匹敵するほどの重要な瞬間だった。これが、「世界初」の指点字が交わされた瞬間なのだから……。
何という感動的な一瞬だったろうか……。と私は思っているのだが、智はそのとき、あまり感激していなかったらしい。
もちろん、私が指にタッチしたことは覚えているし、それを「言葉」として読みとったことも覚えている。けれど、「また、おふくろが変なことやりよるな」くらいにしか思わなかったというのである。はなはだ失礼な息子である。
・・・
ひさしぶりの東京駅は、さすがに人が多い。私と智は附属盲学校の寄宿舎に向った。
・・・
智にとっては三カ月ぶりに戻る学校だ。しかし、私も智も足と気持ちが重い。智は口数少なく、表情も心なしか暗いようだ。
・・・
・・・耳が聞こえなくなった今、できれば荷物整理だけをそっとして、あまり友だちにも顔を合わせたくないのかもしれない。
寄宿舎の玄関についた。・・・
そのとき、一人の男子生徒が廊下から走るように近づいた。そして、智にぶつかるようにしながら触った。
智の友人で全盲のK君だ。智がぼそぼそと言った。
「誰や?ぜんぜん聞こえナインや。僕の指をな、点字のタイプライターみたいに打ってくれたら分かる……」
智が両手を前に出す。K君はそれをすばやく触って、何か打った。
「ああ、Kか?うん、それで読める、それで分かる」
K君がまた何か打っている。声に出していないから、私には彼が何を打っているのか分からない。ただ、智が答えている。声がうれしそうだ。
そのうち、他にも友だちが集まってきた。
「福島が来た」
「戻って来た」
「指に点字を打てば通じるぞ」
多くの友だちに智は囲まれている。
「誰や、誰や?誰が誰やら分からんやないか、はははは」
智が何人もの友達の手に触れ、点字を打ってもらって笑っている。智のこれほど明るい笑顔は久しぶりに見た。
涙が溢れた。幼いころからこれまでの智と私のさまざまな苦労がよみがえる。その思い出がどっと私の胸におしよせた。