無心状態

絵画の向こう側・ぼくの内側――未完への旅 (岩波現代全書)

 とても大事なことだなと、印象に残りました。

 

P50

 ぼくは子供の頃からかなりの年齢に達するまで、言葉で自らを表現することが非常に不得意だった。・・・母はぼくを人に紹介する時は、いつも「この子は口ベタでー」(以前にも書いた)と耳にタコができるほど言うものだから、本当に人前に出るのが恥ずかしかった。動物や、魚や虫と心の中で対話をしていたので、別に人と話さなくても退屈するというようなことはなかった。

 絵を描く行為は頭から言葉を廃することで、無心状態に近づけられる。この状態はある意味で理想的な制作の瞬間で、自我から無我に移ることで、限られた個人的概念というよりも、なんだか実体のあるようなないような、不思議な感覚に浸っているような気がする。といって、自我と無我が対立して、無我だけの世界にいるというのではない。このような感覚は今に始まったわけではなく、小さい子供の頃から味わっていたような気がする。子供はこんな面倒な言葉で考えたりしないが、身体がこの感覚を代行していたように思う。

 ぼくにとって絵を描くことは、大人になるよりも、子供に戻ることに近いように思う。この間テレビで、天才だという子供が四人登場していた。ビリヤードがハスラー顔負けにうまい子。この子は成功するかしないかは、「自分の想い」が決めるという。つまり、絶対うまくいくと想像して信じるのだ。二人目はパソコンの早技天才。大人は誰も太刀打ちできない。なぜ早いかは「無心になること」だという。三人目は女の子の落語家。プロも舌を巻く技術だが、「登場人物に成り切る」ことと軽く言う。四人目は子供カメラマン。大人のどのコンテストでも入選、入賞。その秘密は「感じる」ことだそうだ。

 ここには、近代的な知性の入る余地がない。自我は近代によって築かれたが、彼らは近代というより、むしろ東洋的な無我というか無私の態度を貫いている。・・・ぼくは彼等に人類の未来を感じないわけにはいかなかった。

 

P200

 広島と長崎に投下された原爆の威力の恐ろしさを知らされたのは、終戦日の八月一五日以後だったように思う。ぼくは原爆が投下された日も、いつもと同じように田んぼの間を流れる小川で魚捕りに夢中だった。魚にすれば、上空から攻撃を受ける人間同様、水中を必死で逃げ廻っていたことだろう。このように魚を追っかけているその瞬間は、戦争の恐怖から逃れられていた。・・・

 そんな戦争と平和の境域の忘我の中で必死に生きている子供の時代のぼくを、遠い過去に訪ねて一枚の絵に仕上げてみた。底にガラスを張った覗き箱を水面から少し沈めて水中にいる魚を、右手に握った「ヤスリ」と呼んでいた、竹の先にフォークに似た鋭利な刃物をつけた槍で突き刺すのである。そんな少年の自画像の背景遠くには、広島に投下された原爆のキノコ雲が、血に染まったような赤い空の中でまるでストップ・モーションのように固定している、そんな黙示録的風景を描いた作品である。

 この絵の上部からとんでもない大きいお椀が少年の頭上に覆い被さっているのは原爆の死の脅威でもあろうか。お椀に添って上から突き刺されているのは割り箸である。ここまで書けばこの絵の右下に小さく描かれている一寸法師が乗ったお椀を、水中から魚の眼で見上げた光景であるということがすぐ解ってもらえると思うがいかがだろう。

 ・・・この絵では悪魔のようなキノコ雲と天使のような可愛い妖精の間で、横尾少年はそのどちらにも気づかずに夢中になって魚を追っているのである。

 危機的状況にも平安的状況にもおかまいなく、今目の前にあることに無心になれるこんな少年の日の夢を、ぼくはいつも取り戻したいと思っている、その気持ちがこの絵を描かせてくれたのだろう。