あちらとこちら

猫背の目線 (日経プレミアシリーズ)

 共感しつつ、印象深く読んだところです。

 

P139

 ・・・輪廻を信じない人にとってはこの世は一回限りだ。肉体の消滅とともにその人間も無に帰すというわけか。では何のためにわざわざ生まれてくるのかということになる。たった一回きりの人生が全てだというなら全ての人間が平等でなければならないことになるはずだが、この世は実に不平等にできている。

 見た眼には確かにそう見える。しかし宇宙は最高に合理的にできていて、宇宙原理という摂理によって秩序と調和がとれているとすれば不平等なはずがない。一体誰が不平等だといいだしたのだ。唯物的な考えに従って生きている知的な人間が言いだした論理ではないのか。人間には知性と叡智があるというが、そんなに偉いものなのか。ぼくは愚に徹することによって何かモヤモヤしたものの扉の向こうに行けそうな気がするのだが―。それがぼくの芸術のテーマでもあるのです。

 

P152

 ・・・ピカソを観たあと、ポンピドーセンターのミロ展に痛い足を運んだ。ミロの絵は詩的で音楽的で眼に優しく、日本で流行の癒し系の芸術かもしれない。ピカソもミロも同じスペイン出身の画家だが、前者は悪魔的、後者は天使的といえる。

 ぼくは別に悪魔が好きではないが、生命力とエロティシズムと死が渾然一体となり、神をも恐れぬ破壊と創造を同時に描出し、強烈な魂で人間存在の根底にゆさぶりをかけてくるピカソの作品に、肉体が振動するような興奮を覚えるのだった。今すぐ飛んで帰って絵を描きたい衝動を、ピカソは画家の魂に促さずにはおかない。ピカソにはデモーニッシュな力がある。

 ・・・

 今回の散歩は・・・ピカソ美術館、ポンピドーセンター、パリ市立美術館、オルセー美術館ルーブル美術館を二日で駆け巡った。そして何人かの巨匠と魂の会話を交わし、絵画という宇宙空間を心ゆくまで遊泳散歩することができた。

 そして得た実感は「この広大無辺の宇宙には画家はたったひとり、自分しかいない」ということだった。つまりぼくが「ぼく」であるということだ。

 

P176

 ・・・懐メロは死の気分にさせてくれる。どういうことかというと、懐メロを歌っている歌手のほとんどがこの世にいない人達だ。だからぼくには死者の国からの音楽に聴こえるのである。生きてる人の歌はぼくにはどうも生々しく聴こえていけない。

 死者の国から聴こえてくる歌はなんとも安らかな気分にさせてくれる。現世から見れば死者の国は幻影のように見えるかも知れないが、ぼくは逆である。むしろ現世が実在すると信じているが、実は仮想の世界で、あちらの世界の方が実相に思えるのである。絵なんて一種の幻影であり、ウソの世界だ。ぼくは芝居を観ていていつも思うのだが、舞台の上ではいくら恋をしても殺人を犯しても、芝居が終わってしまったら結局は仮想の世界での出来事だったことがわかり、役者は日常に戻って、ウソの世界を後にして帰っていく。と同様に、死者の国からこの現世を思えば、われわれが現実と信じていることが全てお芝居に見えるのではないだろうか。

 するとわれわれは毎日、現実をお芝居の舞台とは知らずに一生懸命お芝居をしているように思えるのだ。だから芸術だって同じで「たかが芸術」ということになる。そんなウソの世界で描いた絵なんかにぼくが責任が持てないのもそういう理由からである。

 ・・・そしてこの世界が信用できなくなってくるのである。といって、このような感情が嫌だというのではない。むしろ安らぎさえ覚えるのだ。そんな安らぎの中で絵を描いている自分が好きでもある。死と同時にこの世界が消えると大方の人はそう思っているが、ぼくが死んだ時は、「ああ、長い間ウソの世界を本当の世界と勘違いして生きて来たんだなあ」という妙な感慨だけがポカンと中空に浮かぶのを魂の目が見るに違いないと思うのである。