「今回の『勉強会みたいな本作り』の生徒としての依頼をお受けしたのは、学生だったころから何年も離れた今、もう一度『先生たちの授業』を聞いたらどんな気持ちになるのか感じたかったからだ」と、壇蜜さんがいろんな分野の専門家に学ぶ、という形の本を読みました。
P70
壇蜜 小林先生のご著書『生物はなぜ死ぬのか』はタイトル通りの深いテーマについて書かれてるのですが、「長寿のコツを他の生物から学ぶことはできないでしょうか?」という内容のところで、私も個人的に以前から目が離せなかったハダカデバネズミが登場してきてくれて、なんだかすごく嬉しくなりました。ハダカデバネズミって名前自体がちょっと悪口じゃん、とは思っているんですけど……。
小林武彦(以下、小林) 毛がほとんどなくて、「はだか」なのがユニークですよね。それに、出っ歯。まったく見た目通りの名前ですよね。
壇蜜 どれをとってもインパクトよ……、みたいな。でもデバ(ハダカデバネズミ)って完全なる役割分担をしていて、生きること、繁殖することにすべてを捧げるすごい生き物だと私は感じています。デバの社会には部署のようなものがあって、代々その役割を担うデバたちは変わらないんですよね。食べものを供給する係、育児係、壁を修復する係、それから外部の敵に食べられる係まで……。たしか目は、ほとんど見えてないんですよね?
小林 土のなかで穴を掘って暮らしているので、視力はモグラくらいに弱っていると思います。彼らが生きてこられたのは、変わらない地中という環境で競争がなかったからだと思います。おっしゃる通りデバの社会はすごい分業がされていて、驚くほど効率がいい。生物のなかでは、ひとつの究極の形だろうと私も思っています。ただ遺伝的な多様性は、少ないです。みんな血縁関係なんですよね。めったなことでは他の家族と交わらない。何十年かに一回くらいは、洪水が起こったりして遺伝子が混ざることもあるみたいなんですけど。
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外敵がいる小型の生き物は通常長寿化は難しいです。社会性の強い生き物たちには「集団知(集団的知性)」があり、それが私たちに理解できないくらい高等なところまで発達しているのでしょうね。魚の群れなども、すごく統制されているように見えます。お互いにぶつからず、さっと同じ方向へみんな行くわけですよね。人の同調圧力も元を辿れば似たようなものかもしれません。
壇蜜 かといって、先頭の魚が偉いリーダーというわけでもない。すごくバランスがとれていますよね。
小林 先頭も融通無碍に変わりますからね。集団心理が強く、1匹か数匹かがある方向に行くと、みんなそちらを向く。それが全体としては正しい方向に向かっているというような。不思議ですよね。石狩川を下った鮭の群れのなかには、遠くベーリング海まで行って戻ってきたのがいるでしょう?群れのなかに1匹くらい飛び抜けて記憶力のいいやつがいて、帰り道はあっちだと覚えているわけじゃないとは思うのですが。
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小林 そもそも明確な形で「老い」をもっている野性の生き物は、ヒトのほかに哺乳類ではゴンドウクジラとシャチくらいなんです。
壇蜜 そうなんですか?
小林 たとえば、ハダカデバネズミには年をとって元気のない、「老いた個体」がいません。死ぬ直前までピンピンしています。
壇蜜 そうそう。デバは、ピンピンコロリなんですよね。
小林 チンパンジーも基本的に同じです。もし、ヒトみたいに「老眼になってきた」とか自己申告してくれたら、「老いたチンパンジー」と呼べるのかもしれませんが、それはわからない。だから私たちは、生理があって子どもが産めるあいだは「老いてない」という生物学的な基準をつくっています。それによると、ヒトは50歳くらいで閉経した後も30年以上、子どもを産まない状態で生き続けるという珍しい動物です。この定義によれば、ヒトとゴンドウクジラ、シャチだけが老いの期間、つまり老後をもっている。これらの種では、老いが必要だったから、老いるように進化したのだと思います。その辺のところは近著『なぜヒトだけが老いるのか』でも書いています。
壇蜜 人間には、そしてゴンドウクジラやシャチには、なぜ「老い」があるのでしょうか?
小林 本当のところはわからないのですが、シニアのクジラやシャチにも何か役割があるのだと考えられます。・・・
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ところで、『生物はなぜ死ぬのか』という本を書いたとき私が考えていたのは、生き物が死ぬということは公共的なものなんだということでした。
壇蜜 死は個人的なものと感じられるけれど、死ぬ人は自分のために死んでいくわけではないということでしたね。
小林 そうです。死の意味を理解するには、たとえば地球上では生物が38億年前から、生まれては死にながら、ずっとつながってきたことを考えればいい。無数の死の上に、私たちの生命もある。そのことに関しては、過去の生物に対してリスペクトが必要です。
そして「みんながいつかは死ぬ」ということは、生き物が最後に100%公共的なものになるということです。つまり、だんだん公共的なものになっていく過程が「老い」です。
東京大学大学院情報学環教授の佐倉統さんとの回。
P191
壇蜜 『「便利」は人を不幸にする』という本も執筆されていますが、科学技術の発展と幸福の関係についても、お考えを聞かせてください。・・・
佐倉 そのタイトルは編集者の提案によるもので、「不幸にする」は言いすぎです。科学技術の進歩で私たちの生活がすごくよくなったのは、明らかだと思うんです。ただ、それを実感できないのはすごく問題です。
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壇蜜 ・・・便利さですごく恩恵を受けていると感じるのが、冷凍のタマネギのみじん切り。本当に便利なんです。あとは冷凍の揚げナス。これを買って、手を抜いているということは百も承知だ。人としてどうなんだ?と思いながらも、便利さでこれに勝るものはないという幸せを感じています。
佐倉 なぜ、手を抜いていることに罪悪感を感じたり、人によっては非難したりするんでしょう。かつて東芝が電気炊飯器を出したときも、日本の主婦たるもの、早起きして米をといでやるのが当然、手を抜くなみたいなことが言われました。別に冷凍のみじん切りを使おうが、揚げナスを使おうが、やましいことはない。
壇蜜 はい。でも、やましいことを感じながら使っているというプレイです。それで有り難みを逆に感じているんだと思うんです。
佐倉 なるほど、そういうことですか。科学技術が当たり前になると便利さを感じないという話をしましたけど、だからスマホを使うたびに「ありがとう、ありがとう」と言う(笑)。
壇蜜 エアコンつけるたびに、「江戸時代の人はなかったよねー」みたいな話をするとか。そういうプレイをしながら暮らせば、人生100年うっかり生きちゃったとしても意外と幸せかも、とうちの旦那が申しておりました。
佐倉 アフリカも電気やガス、水道がなくて最初は驚きましたが、そのうち慣れちゃって、逆に帰国すると夜中も明かりがついているし、ひねれば水が出てくるし、びっくりする。でも一番、驚いて感謝したのは空港からバスに乗って、こんなにも道が平らってことでした。
ですから、ときどき人工的に科学技術のない環境をつくり、体験するというのはアリかもしれないですね。昔はよかった、という人が結構いるんですけど、あれはやっぱり何か大事なことを見落としているような気がする。
壇蜜 私たち、本当に幸せを感じるのが、むずかしくなっていますよね。