横尾忠則さん

死なないつもり (ポプラ新書)

横尾忠則さんの「死なないつもり」を読みました。
タイトルが、この方らしく感じて、なんかいいなと手に取りました。
また印象に残ったところをメモしておきたいと思います。

P10
 自分が何者かというのは、周りの人が決めてくれるんです。
 いや、最近は、年齢とともに、なんでもいいや、自分が何者でもいいわみたいな感じですかね。というより、何者である必要もないと思いますね。
 たとえばピカソはいったい何者なんだろうと、いろいろな角度から究明したり解体しようとするけれど、結局のところ他人も本人もわかるわけがない。アンディ・ウォーホルは、「私を知りたきゃ私の絵の表面を見ればいい、裏には何もない」という有名な言葉を遺しているし、「誰もが同じであればいい」とも言っている。講演会を頼まれた時には、銀色のかつらとサングラスのそっくりさんを派遣して、自分の代わりに適当な講演をやらせたというエピソードもあります。ウォーホルは「自分が誰か、自分が何者か」という問いを超えていたと思うんです。

P42
 雑念にせよ欲望にせよ、そう簡単に消したり抑えたりすることはできません。本気でなんとかしたいと思うなら、そもそもその欲望が生まれる基盤というか、おおもとのところを徹底的に見つめる必要がある。
 でも、あっさり言いますが、無心になる方法はありません。雑念から離れられないのだから、無心になることなんてできないでしょう。ならば、無頓着になる、というのがいいんじゃないかと僕は思っています。
 物事に対して執着しない。理屈をこねたり、意味を求めたりしない。そんなことどっちでもいいじゃないかというように、こだわりをできる限り減らす。気になることをできる限り減らしていく。
 無心なんていうと、すごく高いレベルの行為を要求されている気がするけど、無頓着だったら、案外できそうな気がするじゃないですか。
 いってみれば、起きてるけど、寝てる状態。そんな感じかもしれない。つまり意識を張りつめて、次々と現れてくる思いや考えと格闘するのではなくて、それらをさらっと流してしまうような。夢の中とか、寝ている時こそ、いろいろ面白いことが起きることもあるしね。

 ↑ここを読んで、そういえば水木しげるさんの本に「ねぼけ人生」というのがあったなと思いました(笑)
ねぼけ人生 (ちくま文庫)