満月に照らされて

サルデーニャの蜜蜂

 内田洋子さんのエッセイを読みました。

 文章から、その場の風、匂い、湿度などが伝わってくるようです。

 

P157

 ジーノから借りた家の真向かいの山に人が住んでいるらしいと知ったのは、秋もかなり深まった頃だった。・・・

 ・・・

 山から山へ灯りで呼びかけ合ってから数日後、双方の山を下りたったところで初めてその相手と会った。・・・長身で痩せ、髪を青みがかった黒に染めて後ろでひっつめている。ジーンズは洗いざらしで色が抜け、腿のあちこちが裂けている。ハイカットのバスケットシューズは泥まみれ。高い腰に付けたウエストポーチから煙草を取り出して、どう?と私に勧めてから、

「時間があれば、ちょっと寄って行く?」

 私ソフィア、と握手の手を伸ばしながら招いてくれたのだった。

 大変な勾配だった。坂道などという生易しいものではない。絶壁に這う根や低木につかまりながら、よじ上っていかなければならない。ソフィアは慣れたもので、休まず軽やかに上っていく。・・・

 難関をどうよじ上ったのか、よくわからない。上り切った前には立ち枯れている雑草の繁みがあり、両手でかき分けて進むと突然、畑に出た。イチジクやスモモ、キウイなどの果樹が周囲に植わっている。ビニールを被せた畝にはレタスが結球し、端にはパセリやローズマリー、バジリコが寄せ植えになっている。

「まだ実が生るのよ」

 ソフィアは果樹の枝に引っ掛けてあった籠を取り、季節外れのトマトを捥いで投げ込んでいる。

 ・・・

「今晩は、うちで食べていってね」

 招待に喜びながら、でも、と闇の中の絶壁を思い浮かべて躊躇している私に、

「心配しないで。奥の部屋が空いているから泊まっていけばいいのよ」

 不思議な夕食だった。ソフィアは畑で採ってきたばかりのトマトを次々と手で絞ってザルに上げ、あっという間に玉ねぎと人参をみじん切りにし、全部いっしょに深鍋に放り込んだ。鍋底でたぎるオリーブオイルに、具が泳ぐ。坂道を背負ってきた買い物袋から、挽肉の包みを丸ごと加える。肉汁と野菜がジュウと音を立て、ボローニャが鼻先に現れた。

「余所者なのよ、私も」

 ソフィアが沸き立つ湯に投げ入れたパスタは、手打ちのタリアテッレだった。

 大鉢にソースとパスタを混ぜ合わせていると、台所の窓の向こうに月が出た。

 チイチイと羽音がし、リーンリーンと虫の音があちこちから聞こえる。ソフィアは電灯を消し大鉢を抱えると、屋外に向かって顎をしゃくった。

 ・・・

 十二夜くらいだったろうか、それでも月光は十分に明るく、ボロネーゼソースを絡めたパスタから立ち上る湯気も見えたし、湯気越しに親子三人とも挨拶できた。

「ダリオは十五年前の秋の満月の夜に生まれて、アガタは十二年前の夏の満潮時に生まれたの」

 ・・・

 月が満ちると、ソフィアから声がかかるようになった。何度か訪ねるうちに、月光の下、山道を歩くこつを覚えた。最後の急勾配を上りきると、ほっとした。ここまで来れば、もう大丈夫。山と月に見守られているような、静かな安堵感があった。

 畑のところからもう、野菜を炒める匂いがしてくる。何度来てもメニューはボロネーゼソースのタリアテッレと決まっていた。今日は少し早めについたので、まだ暮れきっていない。薄紫色から藍色に変っていく空の裾に山々が黒く沈んで、月を待つ。・・・