印象に残ったところです。
P96
京都市右京区栂尾の高山寺の拝所に欅づくりの一枚の掛け板がかかっています。
・・・華厳宗の僧で高山寺を開いた明恵上人(1173~1232)が弟子たちとそこに住んでいたとき、修行僧が山で守らなければならない規則を書いた、古い古い掛け板です。その冒頭に、
《阿留辺畿夜宇和》
と、あります。漢字はひらがなの「あるべきようわ」にあてたものですから、漢字の意味は考えなくてもいいです。
・・・
そして、そのなかに明恵上人の大切な教えが含まれています。
人は阿留辺畿夜宇和の七文字を保つべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。
乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり
「人は『あるべきようわ』の七文字を守らなければいけない。
僧侶は僧侶らしく、市民は市民らしく生きる。一国の王は王らしく、部下は部下らしくあらなければいけない。
この『らしくふるまう』ことに背くと、すべてが悪いほうに行く」
そう説いておられるのです。
「あるべきようわ」とは自分の本分をわきまえて、それらしくふるまうことです。
・・・
明恵上人の生きた鎌倉時代は、「お釈迦さまの入滅後、歳月とともに仏法が衰え、世の中が混乱する」という末法思想の流布したころで、人々は「現世は苦しいもの」と諦め、「来世で浄土(天国)に生まれ直そう」と願っていました。
法然上人や親鸞聖人が、その庶民の願いに救いの手を差し伸べました。「南無阿弥陀仏」のお念仏を一心に唱えれば、よい人も悪い人も、死ねば誰もが極楽浄土へ行けると。それに対して明恵上人は、
「現世をないがしろにして、後世ばかり救われるというような聖教(お釈迦さまの教え)はない。現世でこそ、人はそれぞれの立場で、それぞれが最もそれらしく生きることが大切である」
そう教えたのでした。
P212
・・・現代の浙江省台州市にある天台山の国清寺にいたとされる寒山(生没年不詳)が書いたとされる『寒山子詩』のなかに、こういうものがあります。
生と死の譬えを識らんと欲せば
且く氷と水をもって比えん
水結ぼるれば即ち氷と成り
氷消くれば返って水と成る
已に死すれば必ず応に生きるべく
出で生まるれば還た復に死す
氷と水とは相傷わず
生と死と還た双つながらに美し
現代語訳では、こうなります。
「生と死を何かにたとえようとするなら、水と氷の関係がいい。
水が凍れば氷となり、氷が溶ければ水となる。
人は死ねば、必ずまた生まれてくる。生まれ出れば、また必ず死んでいく。
氷と水は互いに相手を損なわない。生と死もまた双つともに美しい」
寒山は、世間の常識から外れた生き方をする〝風狂の僧〟として知られた方です。いつも汚れた長髪で衣はボロボロでしたが、人の生死の無常を詠った詩は、とても美しい。
そして人の命が無常だからこそ、今日という1日を一生懸命に生きるという思想が生まれました。いまのこの一瞬を「切に生きる」は私が帰依した天台宗の根本思想であり、私の生き方を支える言葉でもあるのです。
P247
日本で年賀状文化が始まったのは平安時代でした。
・・・
その習慣は貴族だけではなくて、鎌倉時代に入ると、富裕な庶民にも広まりました。
それとともに、年の暮れに1年間お世話になった方々への感謝を込めて、プレゼントを持って回るという「お歳暮」の習慣も生まれたのではないでしょうか。
そして、そうした新年の挨拶状やお歳暮のやり取りに疲れた人もたくさんいたことが、兼好法師の『徒然草』の第112段を読むと、よくわかるのです。
兼好法師は難しい言葉を使わない人で、原文を読んでもわかりやすいのですが、少し長くなりますから、現代語に訳した文章で紹介しますね。
世間のしきたりはどれも逃れがたい。だからといって、世のならわしは無視できないというまま、欠かさぬようにと努めれば、願いごとも多く、身体も窮屈で、心の余裕もなくなり、一生は些事へのつまらぬ義理に遮られて、空しく終わってしまうであろう。
日は暮れても行く先は遠い。わが生涯は挫折ばかりであった。すべてのしがらみを捨て去るべき時である。
信義も守るまい。礼儀も考えまい。この気持ちを理解できない人は、私を狂人とでも言うがよい。
(『新版 徒然草 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫 小川剛生訳注)より)
信義も守るまい。礼儀も考えまい。と、言い切っているところに、鎌倉時代の人々が、そして兼好法師自身が、いかに新年の挨拶やお歳暮などの慣習に疲れていたかが察せられます。
そして、それは21世紀のいまもまったく変わらないのです。
年賀状や盆暮れのお付き合いをもうやめたいなと思っていても、その決心がつかない人は、ぜひ『徒然草』を読んでください。
きっと、「目からウロコ」が落ちますよ。