あしたはアルプスを歩こう

あしたはアルプスを歩こう (講談社文庫)

 旅って、どこに行って何をしたかと共に、どんな人に出会ったかもとっても大きいなと、この本を読んで改めて思いました。

 

P57

「マリオさん、これからいく道、こわくないですか」

 私は訊いた。こないだの断崖絶壁の高所を歩くのは勘弁してほしいと願っていた。

「あのね、こわい、というのは、危ない、というのと違う。今日の道は危なくないです」

 マリオさんは即答した。

 私はちょっと言葉を失った。この人は、なんて本質的なことを言うのだろうとびっくりしたのだった。こわいということと危ないは違う。そんなこと、考えたこともなかったが、たしかにそうである。

 旅のあいだ、マリオさんのこういう、本質をぎゅっと素手でつかむような言葉に、私は何度もはっとさせられた。

 

P134

 飛行機のなかで、今回の旅で出会ったものを反芻した。真っ先に思い浮かぶのは、人々の顔である。

 アロンゾ小屋の夫妻、アグリツーリズモの夫婦、牛舎の老夫婦、羊飼いのレンツォさん、コルティナのホテルの家族。それから、毎回荷物を背負っていっしょに歩いてくれたポーターたち。通りすぎるように出会った人々だが、それぞれ印象深い。山の麓の町に暮らす彼らは、みな印象が似ていた。マイペースで、気負ったところがまったくないのだ。そしてみな、他に対してじつに寛容である。

 ・・・

 たとえば「どうして山の生活を選んだのか」という問いに、格好のいい言葉を返す人はひとりとしていなかった。「ここで生まれたから」「山が好きだから」、じつにシンプルな言葉をへろりと口にする。たいしたことはしていない、ただ好きなことをしていたらここにいた、と。そうして私がもっとも興味深く、感銘を受けたのは、「山に暮らす」ということを彼らがまったく美化していないことだった。アロンゾ小屋の夫婦は、「もっとお金を稼ぐことを考えている」と言い、アグリツーリズモの主人は「スローフードもいいけどファストフードもいいよね」と言う。そこにあるのは、ごくふつうの生活である。

 ・・・みんな自然体で暮らし、自分の好きなものと嫌いなものを知っている。それだけのごくふつうの人たちだ。その「ごくふつう」は、じつはたいへん難しいことではある。

 自然、という言葉を持ち出すとき、大切にしなければならないもの、私たちが守るべきもの、とどうしても考えてしまう。けれど今回、私が目にした自然は、あまりにも巨大で、私の理解をはるかに越えていて、「大切にする」「守る」というような対象ではないと知った。私たちは守るのではなく守られなきゃならないのだ。やさしいだけではないし、美しいだけでもない自然に、守られて暮らす。そういう敬虔さを、だれもが持っていた。