このラッパーの和田さんのお話も、興味深く読みました。
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和田さんは一九七七年生まれ。父親が新聞社の特派員だったため、四歳まではパリで、その後いったん帰国した後、六歳から一〇歳まではロンドンで過ごす。
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小学校の学年が進むと、日本に帰ってからのことを考えて、日本人学校に入れる親も多いが、和田さんの親はそうしなかった。
おかげで英語はその後の人生でまったく不自由しなかったが、海外赴任から帰国するときにちょっと困った。
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そこで出会った先生が、和田さんの人生に大きな影響を与えることになる。
「小学校四年生で戻ったんですが、担任の内藤先生という人が、僕の生涯で恩師と呼べる人だと思っているんです。ランニングシャツに草履をはいて、バカボンのパパみたいな恰好をしているんです。口ひげをはやして、サングラスをかけて。もともと中学校の先生で、小学校の教員免許は持っていなかった」
そのせいか、内藤先生の教えることはちょっと大人っぽかった。
先生は芥川龍之介の『河童』という小説が大好きだったのだが、国語の時間にはそれを子どもたちにも読ませた。芥川の他の作品や、漱石も読ませた。
「教科書も持ってくるけど使わずに、生徒に問題を作らせるんです。『今日は和田が作ってきた問題をみんなでやってみろ』とかって。問題を作るためには、そのことの本質を理解していないと作れないから、みんな勉強します。それで僕も考える力というか、思考力を身に着けた」
これが大きかった。物事の本質とは何か。ここでは何を言いたいのか、何を教えたいのか、何を理解すべきなのか。そう考える癖をつけたことが、今の人生に至るまでめちゃくちゃ役に立っている。
「学校の居心地がすごくよくって。僕はカードゲームを自作して学校へ持っていった。それも、校長先生とか内藤先生とか、いろんな先生や生徒のキャラクターを絵にして、それをカードにするとか。そんな感じで自由でとっても楽しかった」
だが、和田さんはその道を選ばなかった。ここでもふと、考え込んだのだった。・・・
「高校までは行って、その後どうするかというと、きっと大学に行く。僕はロンドンにいたので、イギリスではオックスフォードやケンブリッジがいちばん上の大学だということは聞いていて。じゃあ、日本だとどうなんだろう、どうせ大学に行くなら、いちばん上を目指すなら東大だよなと、小学校五年生の時に思って」
で、東大に行くにはどうしたらいいか。
それは東大への合格率が高い高校に行くこと。・・・
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で、当時、有名私立中を受ける子どもたちがこぞって行っていた、四谷大塚という進学塾の全国テストを受けてみた。
E判定。合格圏外。
「内藤先生の方針で、テストで聞かれるようなことは何も学んでなかったんですね。考え方はわかるけど、暗記すべきものは何も知らなかった」
御三家の運動会を見に行って、いちばん自由にみえた武蔵が気に入った。そして、武蔵専門の塾に入る。そこで、徹底して武蔵を受けるテクニックを教わったら、伸びた伸びた。小学六年の夏には、塾でベスト3に入るようになった。
内藤先生にいわば下地を教わっていたのが役立った。暗記は最終的に必要だが、考え方の道筋をちゃんとたどっていく、あるいは、この問題はどういう意図で出されているんだろう?と考える訓練ができていたから、暗記ものでも、一度要領をつかむと後は早い。
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無事武蔵に入る。
高校三年の夏まではサッカーに熱中して、引退。で、もともと目標だった東大を受けることにして、一年浪人。
浪人していたときに、ラップと出会う。
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「これは特に音楽的な素養は必要なさそうだし、楽譜もいらない。ラップをやれば自分にも音楽ができるんじゃないかと思って。勉強の合間にラップみたいなものをつくっていたんです」
受験も無事合格。受かっていると確認した後、友達のイベントで初めてラップをした。
「一曲作っていたから、もし合格していたら歌わせてほしいと。あまりうまく歌えなかったんですけど、相当の刺激があってこれはおもしろい、と」
それから、・・・クラブに通うようになる。
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「クラブで出会った友達と家で曲を作ってデモテープを作って、売り込んだらデビューすることになっちゃって。そうなると、大学なんてもうどうでもいいというか」
大学三年の時、父が、がんがもとで急死する。
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母は高校生の時に亡くなっており、和田さんは弟と二人で残された。
「世の中に対していろいろ不信感を持っちゃって。まともにやることがバカらしくなるというか。ちゃんと治療を受けるといって治しに行ったのに、逆に死んじゃって、どういうことだろうと。大学に対してもまったく興味がなくなった」
結局、中退した。
一方、仕事は順調だった。CDデビューも果たして、事務所にも所属。・・・
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・・・トントン拍子に進んできたのだが、
「忙しくなりすぎちゃって。もともとは楽しく集まって作って、だったのが、締め切りを設定してそこに合わせるようになってきたんです。制作、ライブ、売り込み……。ちょうどその頃結婚して子どもができたんですが、ある種の厭世観というか、疲れちゃって、もういいかな、なんて思って。体調も悪くて、とにかく毎日ぐったりして帰ってくるような日々でした」
大事件が起きる。
脳梗塞で倒れたのだ。二〇一〇年、三三歳の時だった。
この出来事が、和田さんの人生のターニングポイントとなった。
深夜のクラブでのことだった。場所がクラブだったことが、生死を分けた。はっきり書くと、クラブで倒れたからすぐに周囲が気づき、手当てをしてもらえた。家で寝ていたら、脳梗塞からそのまま朝起きることなくあの世へ行っていたかもしれない。
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即、入院。
「四人部屋だったんですけど、・・・毎日誰かしら見舞いに来てくれて、本とかフルーツとか、とにかく山積みで。すごくびっくりしたというか。自分は『どうでもいいや』と思っていたのに、案外、みんなから心配もされるし、つながりもあったんだなと」
自分一人で「もうやめた」と思っていたところから、意識が変わっていく。
三か月の入院が必要だと言われていたが、がんばってリハビリし、一か月で退院する。
「戻っていったら、ヒップホップの業界もあたたかく迎えてくれた。もう少しみんなのために頭やエネルギーを使った方がいいのかなと思って。・・・一人で生きているんじゃない。自分がよければいいや、というよりも視野をもう少し広く持とうかと」